10%思いどおり

 続く雨音の向こう微かに聞こえる廊下の軋みに、文机から顔をあげる。足音だろうか。きし、きし、きし。夜のしじまを書物とともに過ごす至福の時は、ひとまずお預けらしい。
 ほのかに障子越しに見える人影は多分、私の大切な時間をあっさり色褪せさせる彼だから。つまり、何よりも優先したくなる相手。気配を感じただけで、かすかに上がった脈拍に口元が綻んでいる。
 それにしても珍しい、こんな時間に一体なんだろう。

「ボクやけど。まだ起きとる?」
「市丸隊長、」
「入ってもええかな」

 やわらかい声に、頭より先に身体が反応する。慌てて立ち上がろうとしたはずみで浴衣の裾を思い切り踏んでしまい派手に転んだ。
 ずざっ、畳の擦れる鈍い音を聞き付けて、私の返事を待たずにすらりと障子が開く。

「どないしたん、大丈夫か?」

 大丈夫、だけど。したたかにぶつけた鼻が痛くて、痛すぎて声も出ない。
 抱き起こされながら隊長の匂いに包まれる。開いた障子の向こうから雨の匂いがして、ぼんやり霞んだ橙色の月が見えた。

「鼻ぶつけてしもたん?赤うなって可哀相に」
「ふみまへん」
「何も謝ることあらへんやん」

 ひょいと簡単に抱えられて視界が宙に浮きあがった。と思ったら、隊長の前に座らされていた。
 いつもの死霸装に羽織ではなく、見慣れない浴衣姿の隊長が、すぐ傍にいる。お風呂あがりなのか、生乾きの髪がぺたりと頬に張り付いて、色白の耳たぶが覗く。たったそれだけで胸がぎゅうっと絞られた。

「こらアカン」
「…え!? 」

 まだ鼻を押さえたままのわたしに隊長の手が伸びて、前触れもなく浴衣の裾をめくられる。咄嗟に合わせ目を押さえるわたしを無視して、そっと足首を掴む彼の手は予想よりもずっと温かい。

「ここも怪我してるやないの」
「……っ」
「踝、擦り剥いて血ィ出てる」
「は…ホントだ」

 冷えた足先を隊長のてのひらがやさしく包みこむ。その感触が心地いいと思うよりも、不自然な姿勢が胸をどきどきと騒がせる。
 半分めくれた裾、そっと持ち上げられた片足、そこに顔を近付けている隊長の姿。淡い橙の月に照らされて、濡れた銀糸が綺麗に光っている。
 突然訪れた状況に心臓ばかりが活動を早めて、頭はすっかりお留守。両手で必死に合わせを押さえる以外、身動きもとれなかった。

「こないな時はやっぱりアレやね」
「あれ って…」

 じわり、持ち上げられた足先にまたすこし隊長の顔が近づく。触れられているだけで緊張しているのに、これ以上なにをするつもりだろう。
 ぱさりと流れた銀髪が一束、爪先を撫でる感覚に、反射的に身体を引いた。

「なんで逃げてんの」
「へ、変なこと考えないで下さい」

 肌に触れた濡れた髪が冷たかったからか、俯いて目を伏せる隊長が思いのほか色っぽく見えるからか、背筋がぞくぞくする。色素の薄い隊長の髪も肌も睫毛も、近くで見せられれば息を飲むほどキレイだ。

「変なことてなに?」

 ふたたびじりじりと近付いてきた市丸隊長に、足首をしっかりと掴まれる。肌に薄く滲む血に痛みを感じる余裕もない。
 この姿勢はもしかして、踝の擦り傷を舐めようとしているんだろうか?まさか…ね。

「あの…」
「ボクんこと信用してへんの?」
「いえ。そういう訳ではな……っ」

 キミに変なことなんてする訳ないやろ、と言いながらますます足先に顔を近付ける隊長に見惚れかけて。ちらと唇の隙間から覗いた舌を見た途端、我に返った。

「ちょ……隊長!?」
「なん?」
「傷は舐めたら治るとか、あれ、ただの俗説ですからね?嘘ですから」

 半分舌を出したまま、そんな上目使いで見つめないで欲しい。勝手に頭の中では変な想像が浮かんで、舐めて欲しくないのか舐められたいのか分からなくなる。

「あーあ……バレてしもた」
「 やっぱり」
「せっかくボクが舐めて治したげよ思たんに」

 まったく悪びれない顔で微笑まれたら、力が抜ける。それを見計らうように、ざらり 一瞬だけ湿った感触を踝に覚えて、ちくちくと鋭い痛みが走った。

「いたっ」
「…堪忍な、痛かった?」

 本当は痛みよりも、もっと別の感覚のほうがずっと強くて。でも顔を歪めた理由を知られたくないからごまかしただけ。
 なんて光景だろう。あの泣く子も黙る市丸隊長が、ひざまずいて女の足首を舐めている。座っているのに目眩がしそうで、畳に突いた片手にぎゅっと力をこめた。

「はなして、ください」
「ボクが離したら、キミまたコケてまうやろ」

 いつでも、どんな時でも、すっかり隊長のペースだ。はんなりと優しいその声に流されて、何でも言われるとおりにしてしまいそうになる。

「大丈夫…です」
「強がりはやめてな」

 ぐっと近付いた顔に至近距離で覗きこまれて、思わずのけ反る。バランスを崩して後ろへ倒れそうな身体を、そっと支えられて俯いた。
 さっきから、心臓が痛いほど早打ち続けている。本当ならば今頃、お茶でも挟んで正座で向き合っているはずなのに。

「何もないトコでコケるやなんて、ほんま困った子ォやな」
「……自分でもびっくりです」
「子供っぽおて、そそっかしいて、目ぇ離されへんわ」

 そう言って、それはもう慈しみ深い目で見つめられるから、恥ずかしさと嬉しさでぐちゃぐちゃになる。見つめられるのに堪えかねて、視線と一緒に話を反らした。

「なにか、大事なご用事だったんでしょうか?」
「………っ。なんやったかなァ」

 思惑はうまく運んだらしい。急に落ち着きをなくした隊長は、支えていた私の身体からそっと手を離した。
 普通に考えれば、隊長がわざわざこんな時間に席官の部屋に来るなんて、余程の重大事か急ぎの用件じゃないかと思うのに。首を傾げる隊長は、全くそんな空気を感じさせない。

「アカン…キミがコケたんに驚いて忘れてしもた」
「すみません」
「でも、なんや大事なことやった気ィするんよ」
「そう…ですか」

 よいしょ。と、居住まいを正した隊長に、子供がお伺いを立てるようなやけに神妙な顔で覗きこまれる。

「思い出すまでここにおってもええかな?」

 さっきまでの余裕はすっかり消え失せて、借りてきた猫のようにちょこんと正座している。そんな彼の可愛い変貌ぶりに、無意識で微笑んだ。



10%いどおり

(つまりは……90%わがまま)

 ほんまはただキミの顔見たい思ただけやねんけど、そのために用意した言い訳ぜーんぶどっか飛んで行ってん。
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