憂えるパブロフの犬

 イヅルが悪夢にうなされた翌日の三番隊隊舎では、まるで悪夢の続きのような情景が繰り広げられていた。

「ボクのおらんとこで彼女と楽しく過ごすやなんて許されると思てんの?」
「いえ、そういう訳では…」
「なん?ほんなら何話してたんか全部言うて」

 不穏な霊圧をまとった市丸隊長に詰め寄られ、仕方無く僕は夢の内容を話すことにした。もちろん、かなり要約した上に、バッサリ大部分割愛して、支障のなさそうな所だけ。

「僕の夢に子供姿の隊長が出てきて、その話を彼女にしてただけですよ」
「彼女、なんや言うてた?」
「子供姿の市丸隊長は可愛いんでしょうね、とやわらかい顔で微笑みを」
「可愛い言うてくれたん?」
「ええ、まあ」

 途端に市丸隊長の尖り切っていた霊圧は急降下し、代わりに気持ち悪いほどのにやけ顔が現れた。正直、どちらの方が怖いかなんて もはや僕には分からない。

「そないやわらかい笑顔で?」
「はい。それはもう」
「へえー、そうなんや……」

 笑てたん、ボクも見たかったなァ、かわええんやろな……へぇー。
 ぶつぶつ呟いていたかと思えば俯いて、隊長は暫く黙り込む。その数十秒後、急にガバリと顔を上げてひどく真剣な瞳で見つめられた。

「なァ、イヅル」
「はい。なんでしょうか」
「それはつまり、彼女はボクの子供姿が見たい 言うことやろか?」
「……え?」

 この得意げな表情には身に覚えがある、隊長はひどくバカバカしいことを思い付いたのだとすぐに分かった。

「はっ!!ボク、気ィ付いてしもた」

 きっと彼の独断と偏見に満ちたとんでもない理論が展開されて、脱力するだけなのだ。全くもって聞き返したくない、と思いながらも問いを向けざるを得ない狐面の笑顔。ほら、早う聞いてェな?と閉じた目で訴えられて、僕はしぶしぶ口を開いた。

「なにを、ですか?」
「彼女がボクの子供姿見たい 言うんはな、」
「はい」
「もしかして、遠回しにボクの子供が欲しいてことなんちゃうやろか!?」
「……なぜ、そうなるんですか!?」
「せや!きっとそうに決まってる」

 ボク、相変わらず今日も冴えてるわ。そこまで隊長が呟いたところで、お茶を手に彼女が現れた。

「イヅル、どないしょー…」
「なんですか」
「なんや、恥ずかしィて彼女の顔見られへん」


 こそこそと耳元で響く小声がくすぐったい。まったく、貴方はどこの中二ですか……。予想以上の飛躍度合と、それとは対照的なあまりの恥じらいに、やっぱり僕のような凡人ではとてもついていけません。

「どうせ元から目なんてたいして開いてないじゃないですか!」
「イヅル……酷い」
「市丸隊長と吉良副隊長は、本当に仲が良くていらっしゃいますね」

 ことり。音を立てて、隊長の目の前に彼女が湯呑を置く。その白い指先を追いかけるだけで、彼はほんのりと頬を染めていた。

「…おおきに」
「いえ」

 短い言葉を交わすのも、精一杯といった様子。そんな状態で、貴方と彼女が子作りなんて出来る訳ないでしょう?と頭を抱えていたら、彼女はやわらかく微笑んだまま隊長に向き直る。

「そうだ、隊長」
「なん?」
「近いうちに、夜 お部屋に伺ってもいいですか?」
「も、もも…もちろん!ええよ。ええに決まってるやないの、キミならいつでも大歓迎や!」
「良かった」

 ハクちゃんに、ちょっと見せてあげたいものがあるんです。続く彼女の言葉なんて、隊長の耳にはまったく入っていないようだ。
 いまごろ "やっぱりボクの思てた通りやってんや、そないボクの子ォ欲しん?もちろんボクの方はいつでも準備万端やで!" などと、自分に都合のいい理論を脳内で展開させているに違いない。

「君、さがって良いよ」
「はい。失礼しますね」


「隊長」
「……」
「市丸隊長っ!」
「ん?なん……イヅル」
「バカな事ばかり考えていらっしゃらないで、お茶を飲まれたら仕事に戻って下さい!」
「……ん。分かった」

 一口お茶を飲んではニヤリ、また一口飲んではニヤニヤ。いつも以上に不気味な隊長の姿を、それから十数分堪能するハメになったのは言うまでもない。

 そんな一件があったからだろうか、その晩僕はふたたび超絶問題児・市丸くんの夢を見た。


 思いがけず静かな園内。やっとあの子も反省してくれたのか、と思っていたらぱたぱたと小さな足音が近付いてくる。

「イヅル先生ェー、抱っこ」

 両手をひろげて縋りつく小さな身体を、そっと抱きあげた。超絶問題児とは言え、きっと悪気はないのだろう。だって素直な市丸くんはこんなに可愛い。

「どうしたんだい?」
「ん。今日はな、センセだけにボクのヒミツ教えたるわ」

 男の子らしく秘密基地でもどこかに作っているのだろうか。やっぱり子供だな、と呑気に思えたのはそこまでだった。彼が僕の耳元で囁いたのは、女の先生たちの着替えをバッチリ意図的に覗いている恐ろしい実態、だったのだから。
 例えば、雛森先生の場合。

「先生ェの着替えてるとこ見てしもた…。カンニン」
「市丸くん…」
「けどわざとちがうんよ」

「そんなん言うてちょっと甘えたら、みーんな"いいのよ"て許してくれはんねん」

 ……そうか。市丸隊長の天然エロタラシっぷりは、こんなに小さなころから健在なのか。なるほど。と、夢か現かも分からない冷静な分析などしている場合ではなくて。

「なんや上手いこと行きすぎて、大人の女ってチョロいなァ」
「は!?」
「なんでイヅル先生ェにカノジョできひんのか、ボク分からんわ」

 簡単そやのになァ…。頭の混乱している僕に、市丸くんはさらに恐ろしい手管を見せつける。どうやって僕の想い人のスリーサイズを知ることが出来たのか、を。

「なあ先生ェ、スリーサイズて何?」
「ん、市丸くんどうしたの?」
「それ、ボクにもあるモンなん?教えてーなぁ、センセー」
「もう…、市丸くん。スリーサイズなんて言葉、誰に聞いたの…?」
「イヅルセンセー」
「………」
「あんな、先生に聞いてみぃ て言われてん。だから、センセーの教えてー」
「んー……」
「アカン?教えてくれな、ボク…ボク…またイヅル先生ェに怒られてまう…グスン」

「そう言うて嘘泣きしたら教えてくれはってん。ほんま女のセンセて単純やなァ」
「ぼ、僕のせいなのかァァァ!?」
「せや!」
「………」
「けどイヅル先生ェかて、知りたかったん違うの?」
「そ……それは、」
「ごまかさんでもええよ、ボクは秘密にしといたるから」
「ああ、ありがとう………ん?」

 って。ちょっと待て!だってそもそも市丸くんの話なら、僕が首謀者ってことになっているんじゃないのか?つまりは彼女からそんな卑猥な情報を聞き出そうとしたのは、僕だ……と。
 だから数日前から彼女の様子がほんのすこしおかしかったのか!

「こらーッ!いちま……アレ?」

 怒鳴り付けようとしたときには、とっくに彼は遠くへ走り去ったあとだった。
 そしてまた、イヅル先生の苦悩は続く…――



 小さくなった隊長の夢をみた翌朝は、たいてい恐ろしいほどに疲れている。神様は僕につかの間の休息すら与えてくださらないのだろうか。まだ執務を開始したばかりなのに。
 はあ―…。深いため息を吐き出したら、扉をノックする音が聞こえた。

「どうぞ」
「お茶、お持ちしました」
「いつも済まない」
「いえ、今日もお疲れのようですね」

 また例の夢をご覧になられたのですか?続く彼女の言葉に力無く頷くことしか出来ず、僕は手元の冊子を引き寄せるとページを開いた。

○月×日
 ついに彼は僕の夢にまで登場するようになった。夢の中ではちいさな幼稚園児に姿を変えて現れては、僕の平穏な日常をさんざんにひっかきまわす。現実生活に加えて、唯一心が休まるはずの夢の中でまで疲労困憊させられるなんて、いったい僕が彼になにをしたというのだろう。神様、どこかにいらっしゃるのだとしたらどうか教えてください!だいたい……


 そこまで書いたところで、執務室に隊長が姿を現す。おおかたさっきまでここにいた彼女の気配を追って来たのだろう。

「イヅルー、何してるん?」
「ちょっと日記を」
「そんなんよう書くことあるなァ」
「僕の飼っているペット(みたいなもの)の成長記録なんですよ」
「へえー、イヅル ペットなんて買うてるんや」
「手のかかる大変なヤツなんです」
「ちょお、見せて」
「……あっ!」

 さすがに本人に見られるのはまずいだろうと思ったけれど、あっという間に奪われた。ごくり、唾を飲み込む僕の前で、隊長はページをめくってはニヤニヤしている。

〇月×日
 今日も、彼はなかなか活動を開始しようとしなかった。かと思えば彼女が姿を表すなり急に様子が一変する。まるでパブロフの犬だ。尻尾をブンブン振って周りが見えなくなった犬のように、恐ろしいスピードで飛び出していくから、彼の通った軌跡に添って辺りの物が散乱する。また僕の仕事が増えた。いい加減に学習能力というものを身につけてほしいものだ。


「どんな生き物なん?」
「この世にふたつとないような」
「ほんま!?」
「強いて言うならば、狐……に似てますね」
「へえー」

 いやいやいや、それ全部貴方のことなんですけど!そこまででも充分わかるでしょう?分かりませんか?分かって下さい!いやいや、分かられては僕の身が危ないのか。

〇月×日
 いつもとんでもないことを仕出かしてくれる彼だが、今日は拾い食いをしたらしくやけに体調が悪そうだった。落ちているモノを食べるなとキツく言ってあるのに何を食べたのかと問えば、拾い食いではないと毛を逆立てて主張する。どうも、自分は猫でもないくせにネコ缶を食べたのらしい。そんなバカな事をする子は、たまにお腹を壊すくらいの罰に当たれば良い、自業自得だ。放っておくと自ら四番隊に駆け込み「猫缶食べた」などと無防備に恥ずかしいことを口走りかねないので、慌てて代わりに僕が走った。思えば彼には振り回されてばかりだ。イイ加減にして欲しい。


「でも少しは言葉も通じるんやね」
「幼稚園児程度の意志疎通はできると言うか出来ないというか」

 ぺらぺらとページを捲る隊長は、やっぱり全く何も気付いていないようだ。気付かれても気付かれなくても、どちらにしろため息の出る状況には変わりない。

○月×日
 ネコ缶風味の食べ物というものが存在する、という彼の思考がまったく理解できない。彼曰く、別の食べ物(チョ●)だと思ったとの事だが、それでお腹を壊していれば世話はない。そもそも彼の考えを理解しようという努力が、すべて無駄なことに思える。とにかく、今日も僕は彼から目が離せないようだ。


「それにしても…、」

 そこまで眼を通すとひととおり満足したのか、市丸隊長はひときわ大きな笑い声をたてて、冊子(別名:イヅルの隊長観察日記)を僕の方へと押し戻した。まあ、今日書いていたところを読まれなくて幸いだったのかもしれないけれど。

「お前の飼うてるペットて、ほんまにアホやなァ」
「………………」

 ――いえ、隊長。それはすべて貴方自身の事です。

 彼女がこっち来た気ィしてんけど、どこ行ったんかなァ?呟きながら出ていく飄々とした背中に、イヅルは深いふかいため息を漏らした。



えるパブロフの犬

彼と僕、いったいどちらがパブロフの犬だろうか。
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