離して頂戴

「ただいまー」

 薄暗い室内からは、当然何の返事もない。ガチャリ、鍵を閉める乾いた音だけがしずかに響く廊下。

「真子…大丈夫だから、もう下ろして」
「あかんて。お前ふらふらやん」

 抱きかかえられたまま寝室へ向かえば、扉を開いた瞬間、情事の名残をのこした香りが微かに鼻腔の奥をかすめる。
 くしゃくしゃと乱れたままのベッドも、半分だけ開かれたカーテンも、何故かやけに艶めかしい空気を醸しているように見えた。
 そっと下ろされた身体の下で、スプリングが軋む。その音に、繰り返し穿たれていた記憶が呼び起こされて、どくり、胸が騒ぐ。

「今度こそ、ゆっくりやすみィ」
 もう、邪魔しぃひんから。

 きゅっとベッドを軋ませて隣に腰を下ろした真子を見上げれば、珍しく眉根を寄せた顔。慈しむようにも、切なげにも見える表情に、鼓動がまた少し速度をあげる。

「ん。でも…」
「なんや?咽喉でも渇いたんかいな」
「違う」

 優しい真子くんが口移しで飲ましたろ、思たのに。と笑う彼は、もういつもの彼。すらりと伸びた指先が、額にかかる前髪を撫でる。おそろしくやさしいやり方で。

「寝る前に、ね。もう一回お風呂…入りたいんだけど」
 冷や汗かいたし、さっきはシャワーしか浴びれなかったから。

 相変わらず、真子の指先は髪の毛を絡めて弄んでいる。その優しい感触が心地よくて、本当はすぐにも眠りに落ちてしまいそうだけど。

「ほんまにお前、風呂好っきゃなあ」
「うん…スキ。知ってたでしょ?」

 ふわ。空気が揺れて、真子の唇が額に降ってくる。いい匂い。

「しょっぱ」
「だから…汗かいたって言ったのに」

 また少し離れた彼の顔を見上げて、ちいさく抗議したら、ニッと口角があがった。なに、その不敵な表情…。

「でも一人では行かせられへんなァ」
「もう、大丈夫だって」
「なに言うてんねん。嘘ばっか吐きやがって」
 風呂で倒れられたら、俺が堪らんやろ。

 そうやって、心配してくれるのは嬉しい。頬を包み込む指先は、泣きそうなほどにあったかくて。真子の感情が、そこから流れ込んでくる。私を覗き込む双眸は、琥珀の奥で不安を映して小さくゆれている。

「……でも、」

 一緒にお風呂に入るのは、別に嫌いではない。だけど、これ以上彼を受け入れるのには身体が付いて行かないから。


「何や、お前なんかヘンな想像でもしてるんちゃうか?」
「…違う の?」
「アホか!人を発情期のガキみたいな扱いすんなっちゅうねん」

 別にそんな扱いをするつもりはない。でも、さっきまでの真子はまさにそれ、そのものだったよね。だからと言って、嫌いになるわけではないし、同意もなく襲うような彼ではない事も分かってる。
 分かってるけれど、でも――

 もしかしたら私は、自分に自信がないのかもしれない。

 きっと真子は、また愛おしくて堪らないものを見るような視線を私に注ぐから。それを見せられたら、抵抗する気なんてなくなる。真子の身体は何度見てもうっとりするような曲線を描いているから。むしろ、彼が欲しくなるに決まってる。
 発情期のガキみたいなのは、私の方だ。

「エエから、観念せえ」
「……」
「このまま大人しぃ寝るか、俺と一緒に風呂入るか、」
 選ぶんはどっちか一つや。

 どうせ、お前のことやから風呂を選ぶんやろ?そんなんお見通しや。言葉にはしない真子の思惟をあらわすように、優しく腕を引かれて。気が付けばまた抱きあげられている。

「約束、して」
「何をやねん」
「いいから。約束するって、言って」

 約束をしなければならないのは、自分の心の方で。真子がどんなに心の奥を擽るような言葉を言っても、どんなに魅力的な仕草を見せても、ゆれないって。

「はあ?よう分からんけど、お前がそれで気ィ済むんなら」
 なんぼでも約束したるで。


「ありがと」

 真子の胸に顔を埋めたまま、呟く私のなかでは"なんぼでも約束したるで"という台詞がぐるぐると回る。何気なくさらりと吐き出された言葉。でも、低く掠れた声は嘘の響きを含まずに、適度に力が抜けている。
 "お前がそれで気ィ済むんなら、なんぼでも約束したるで" たったそれだけで既に気持ちがぐらついているなんて、悟られるわけにはいかない。私の方が嘘すぎる。


「どないしたんや」
「なんでも…ない」
「せやったら構へんけど、しんどいんならムリしなや?」
 風呂っちゅうのは、案外体力奪われるもんやからな。

「うん」
「お前の元気あれへんのが、一番イヤやねんで」

 真子の台詞ひとつひとつが、心をとろとろと溶かして。数分後のふたりの姿が見える気がした。



 ◆


 
(風呂の中で見る身体って、想像よりも卑猥やなァ)


 耳元で囁けば、びくり。腕の中でお前がふるえる。水面がゆらゆらと波打って、切なげに捩られる細い腰。
 逃がさへんようにぎゅうっと抱き締めたら、ぴったり重なる肌が融解し始める。唇から零れおちそうな熱を乗せて、耳たぶを口に含む。
 室内に反響して聞こえるのは、すすり泣くような吐息。するりと掌をすべらせると、バスタブの中、指先が痛いほど絡んだ。


離して頂戴
やっぱり約束できひんらしいわ。ほんま、すまんな。
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