エナメルカラーの爪
ぐったり疲れた身体。でも、それとは対照的にどうしようもなく心は満たされている。砂が詰まったような体内の重たさに比例して、真子の愛情の重さが私をベッドへと縫いつけている感覚。
「ゆっくり休んどきィ」
「ん……」
しっとりと触れている真子の肌の温もりと、繰り返し穿たれた腰のだるさ。低く私を呼ぶ声、髪を梳く手。気怠さと甘さの入り混じった空気は、始終私をまどろみの淵へ引き擦りこもうとしている。
きっと幸せっていうのはこういうことなんだ。殆ど働いていない脳でも理解できるほどの、圧倒的な幸福感に包まれていた。
「目の下。隈、出てんで」
「……」
誰のせいだと思ってるの。との攻める言葉も、音にすらならない。
結局のところ、拒めずに受け入れてしまったのは自分なのだから、真子のせいではなくて自分の所為なのかもしれない(きっと彼は、私が本気で拒否すればそれ以上に食い下がることなんてないのだから)。
「もう、今にも寝てまいそうやな」
「し…んじ……は?」
「俺も寝るから」
額に軽く触れる唇。目を閉じたまま、自然に微笑みが浮かぶ。
「ん。おや、す み…」
「おう。おやすみ」
耳孔に忍び込む低音と、優しく髪の毛を撫でている真子の指が心地よくて。満足な返事もかえせずに、いつしか意識は途切れていた。
◆
「一護か」
「俺の携帯にかけて来てんだから、俺以外な訳ねえだろ」「せやな」
「で、なんだよ。朝っぱらから」「今日、俺ら休むわ」
「へえ。それを何で俺に報告する訳?」「担任に言うといてくれっちゅう事」
賢い一護くんなら分かるやろ?
「なんで俺が…」「俺とお前の仲やん」
電話口の向こうで、一護のため息が聞こえる。
別に一日学校休むくらい、無断でも全然かめへんねんけど。それをこいつに電話してもうたんは、俺の深層心理の中にやっぱり対抗意識的なモンが残ってるからかもしれん。
そう思ったら、自分の器の小ささに苦笑が漏れた。
「………で?」「は?」
「理由は…何つったら良いんだ」「"タフな真子くんが彼女を啼かせ過ぎてぐったりしてるんで、ふたりとも休みます"って。そう言うといて」
「アホか…」 やっぱ、アホ…なんやろうなあ。一護が彼女をどう見てるかなんて、分かれへんのに。ついでに言うなら、彼女は俺の事しか見てへんって分かってんねんし。
「でも、ホンマの事やねんで」
隣で無防備に肌晒して、可愛い顔で寝とんねん。
「……本当だろうがなんだろうが、俺に関係ねえだろ」 わざわざこんなこと言う必要なんて、あれへんのに。そう思いながらも、溢れる言葉が止まらないのは、やっぱりどこかで不安が消えないからだろうか。
「昨日のこいつも、めっちゃ可愛かってんから。
乱れてたし」
「はいはい…仲がよろしくて結構ですねぇ」「当然やん。いっつもラブラブやっちゅうねん」
ある意味、無意識で牽制してんのかもしれんなあ。受話器の向こうで聞こえるため息は、さっきより一段と呆れたように響いている。
今頃、一護のヤツ阿呆みたいな表情して頭抱えてんねやろな。でも、昨日の晩からあんな風に何度も彼女を求めた理由のひとつは、実はお前のせいやねんで?
まあ、そんなんお前が知ってるはずないけどな。
「…じゃあ、適当に具合わりぃとでも言っとくから」
忙しいし、切るぞ。
「頼んどくわ。おおきに」
ツーツーと無機質な音を繰り返す受話器に、暫く耳をあてたまま、隣で寝息を立てている彼女を見つめる。
眉間にうっすらと浮かんだ皺、まだ薄桃色に上気している肌。しがみ付くように俺の胸に触れている掌は、力が入り過ぎているからなのか血の気を失っている。
ぎゅっと何かを掴む形で曲げられた掌を、ゆっくりと解いて。細い指に指を絡めると、そっと唇を押し当てた。
「う……」
「まだ寝ててええで」
随分、無理をさせてしまった自覚は、ある。些細な擦れ違いが、ヒトの感情にどんな影響を与えるのかなんて、すれ違ってみなければ分からなくて。
今回はたまたま、欲情を刺激する方向にそれが作用したっちゅうことなんやろう(いや、でも。いつでも彼女の事は欲しいねんけどな。現にいまも…とか、盛りすぎやろ俺)。
もう一度指先に口付けると、愛おしさで煽られる情動。それを押し込めるように、そっと目を閉じた。
◆
指先に違和感を感じて目を覚ますと、変な体勢で真子が私の掌を掴んでいた。鼻先を擽るのは、ツンとしたエナメルの刺激臭。
「…真子?」
「ん?」
「な…に、してるの」
「おはようさん。目ェ覚めたんか」
答えにならない返事。優しく添えられた真子の左手の中で小さく指を動かすと、それを制するようにぎゅっと手首を掴まれて。
「こら、動くなっちゅうねん」
せっかくキレイに塗れてんのに、はみ出してまうやろ?
塗れてるって。あ……マニキュア?
「もうすぐ仕上がりやから、もうちょっとだけ我慢せえ」
視線を移した先には、綺麗に彩られた自分の爪。何をされているのかを理解した脳は、反射的に謝罪の言葉を紡ぐ。
「ごめん、ね」
「いや。別に謝らんでもええけど」
なんでそんな事をしてるんだろう。質問も出来なかったのは、真子の掌に包まれた自分のそれが、やけに艶めかしく見えたから。
自分でやるよりは遥かに綺麗に仕上がった指先に、素直に見惚れる。真子、器用だもんね。
「はい、完成や。上手いこと出来てるやろ」
「うん。ありがと」
「乾くまで、じっとしときや」
言いながら、指先にふわりと真子の息が吹きかけられる。何故だろう、その微かな感触が心地よくて。ぴくり、掌が揺れる。
風を当てれば早く乾くのかどうかは分からないけれど、ずっとそうして息を吹きかけていて欲しい、なんて。
「何、ぴくぴくしとんねん」
「……くすぐったい、から」
「もしかしてお前、
感じてんの?」
「…ちがう!!」
本当は違わない。指先を温い風に撫でられる感触は、思いの外ここち良いもので。わざとらしく親指を横から啄ばまれたら、肩が揺れた。
ニッと口元を歪めている真子には、きっと私の今の気持ちなんて筒抜け。
「嘘吐かんでもええって」
「バカ真子」
「お前の事なら何でもお見通しや」
「……」
指先を痛めないように、そっと抱き起こされる優しい感触。ベッドの上、真子の膝に乗せられる姿勢で、繰り返される指先への吐息。
細くて長い彼の指が、爪の表面をなぞれば、神経の通っていないはずの器官が敏感に反応を示す。
爪に知覚なんてないはずなのに。その下にある皮膚の末梢神経は、確かに脳へ信号を送って。背筋がぶるり、震える。
「お。もう乾いてるわ」
速乾タイプって、ホンマやねんなあ。
言いながら指先を舌で弄られて。湿った粘膜の感触は、寝起きの所為だからかひどく強い刺激となって身体に入り込む気がした。
真子の薄い唇の隙間を行き来する自分の指先が官能的に見えるのは、いつもと違う色だからかもしれない。視覚と触覚の刺激がダブルで襲ってくる。
「なんで、急に?」
「お前が手ェ握り締めてるから、爪の色なくなっててん」
「……」
それは、真子があんなに何回も私を抱くから。でしょう?
「こんなんも、たまにはええやろ」
「ん……」
「それより、」
エナメルカラーの爪その指で触って欲しなった、とか言うたらあかん?
まだ昼やし。いっそのこと今日は、一日そんな日にしてまうのもアリなんちゃう?なんてのは、ただの俺のエゴやけど。お前もホンマは満更でもないんやろ――