時にそれは伝える為に

 寝室から、ジャズがしずかにもれてくる。真子がご機嫌で着替えるとき特有の選曲。

「真子、そろそろ」
「おー、ええで。入っても」

 つまらない感情なら捨ててしまえばいい。真子をみるたび、ふれるたび、同じことを思う。呆れるほど長い間、いろんなものを共有してきた。時間も空間も想いも。

「ああ?なんや、着替えてへんやんけ」
「うん」
「行けへんの?」
「やっぱりやめとく」
「なんでやねん」

 なのにまだ、ただの少女のように、くだらないことに縛られたりするのだ。どれだけ長く生きていても、そういう部分はなかなか成長できないものらしい。感情的な者はいつまでも感情的なまま、未熟な者も急に成熟できる訳ではない。

 ――あいつからメール来てん。
 服、手に入れてくれたらしいから今度会うねんけど。お前も来ィひん?たまには美味いモン食わしたるわ。

 真子が現世の女の子と付き合っていた時期があるのは、もちろん知っている。彼女とはきれいに終わって、いまここにいることも。彼のなかには、ためらいがないことも。

「体調が、ね」
「俺いいひんくても大丈夫か?」

 寝てれば平気だから、真子は行って。笑顔を貼付けて、背中を押す。

 割り切れない気持ちを抱えるのが、ばかばかしいことだというのだってもちろん知っている。けれど。

「ほな、ちょっと行ってくるわな」

 楽しんできてね。言葉ではそう言いながら、真逆の感情が胸のなかで渦巻く。ホントにつまらない女。こういうとき、自分のことが心底イヤになる。
 知らない時間を過ごしたふたりの空気、それを見るのが怖かった。

「なんや、その顔」
「…別になにも。元からこんな顔」
「嘘つけ。この世の終わりみたいな表情しとるやんけ」
「そんなことない」

 それに、この世というのは案外しぶといもの。いつかは終わると思い続けて、もうどれだけの歳月が通りすぎただろう。
 先にどれだけの日々が待ち受けているのかもわからない。今夜のひとときなんて、またたきをするようなたった一瞬。
 会って、笑顔になって、ひさしぶりやなあ元気やったか、とかなんとか挨拶をして、食事して服を受け取って、おおきにまたな、と帰ってくる。それだけ。

「遅れるよ」
「わーっとる」
「行ってらっしゃい」

 金髪ロングで隊長羽織りを身に纏う真子も、おかっぱ頭のいまの真子も、ずっと近くで見続けてきた。きっとこれからも、こんな時間は続いていく。
 ひたすらに続く時のなかの、たった一コマ。

「あんま、心配しなや?」
「してません」
「早めに帰って来るから」

 どうぞ、ごゆっくり。笑顔で上着を手渡したら、手首ごとさらわれた。
 真子のきれいな金髪が、廊下の薄闇でゆれて。気が付いたら、身体は彼の胸のなかにつつまれている。

「アホ」
「なにが」
「そんな顔すんなっちゅうねん」

 伸びてきた指先が、頬をなぞる。そんな顔。私はいつも、真子を見るときどんな顔をしているんだろう。

「なにそれ」
「それって、それやんけ。崩壊寸前、言うん?」

 数時間後には、ここにふたたび戻ってくる彼。それを黙って見送るだけだ。
 もうすぐドアがぱたり、しまって。この部屋にひとりで残される。
 ひとりだけでいられる静かな時間は、嫌いではない。むしろ、好き。真子と一緒にいるときには出来なかったことをして、例えばお気に入りのお香を焚いて、とっておきのお茶を入れて、ずっと読みたかった本を読んで。それか、彼のいない間をずっとバスルームで過ごすというのもいい。明かりを落として、キャンドルを灯して、いい匂いのバスオイルを垂らして。きっと、楽しい時間を過ごせる予感はある。

「気のせい、じゃない?」
「ちゃうわ。ボケ」
「ボケじゃないです」
「ほんま、意地っ張りなやっちゃなあ」

 ぶるぶると真子のポケットから聞こえる小さな振動音。きっと、彼女だ。

「ほら、待たせちゃ悪いし。行って」
「ちょっとぐらいエエねんて」

 ダメ。私は大丈夫だから。とん、と、胸を押して、あたたかい腕からすり抜ける。寄りかかったせいで歪んだネクタイを整えて。はやくひとりになりたい。

「これでばっちり」
「なあ、」

 きゅっと、はなれかけた掌を掴まれる。せっかくそらしかけていたものを、どうしてそう無理に元に戻そうとするんだろう、真子は。行って欲しくないなんて、思っていないし。ひとりでここに残るのだって自分の意志。
 これから一瞬の孤独を、はやく確認したい。私ひとりがここにいて、1LDKというやわらかいシールドのなかで、ひとりを満喫する。それはきっと、ふたりでいる心地よさを知っているから出来ることで。たまには、それを思い出して噛みしめることも必要なのだ。

 真子からやんわりと逃れた両手で、そっと肩に手をかけて。
 くるり、彼を反転させる。
 彼の後姿は、いつ見ても好きだ。すらりと伸びた背に、細身のシルエットの服。きれいな身体のラインに、毎回うっとりする。

「帰ってきたらいいひん、なんてナシやで」

 肩越しにふりかえる真子の、不安げな瞳。ゆるく眇められたその目に、笑ってみせた。

「さあね」
「なんやねん、それは」
 出て行きたァなくなるやんけ。わざとか。

 選択肢は2つ。ここにいる、ここにいない。
 そこに感情を交えれば、選択肢は4つ。ここにいたいから、いる。ここにいたくないけど、いる。ここにいたくないから、いない。ここにいたいけど、いない。
 真子の求めている答えも、私のなかにある答えも、おんなじ。それに気が付けるくらいには冷静で、それに気が付けるくらいには信じている。
 
「もちろん、いるよ」

 ここにいたいから、いる。もう一度、とん、と背中を押す。

「はやく行って、はやく帰ってきて」
「おう。わーっとる」

 真子の背中からはなれる指先に、じんわりと体温がのこった。


時にそれは伝える為に

いつまでも掴みどころのない感じが堪らんねん。
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