追い掛ける
「それにしても、あんな出っ歯オトコのどこがええねん」
「ひよ里、 出っ歯って」
「アンタなら、なんぼでもええオトコ見つかるやろ」
はよ別れてまえ。
ごしごしと私の濡れた髪を拭きながら耳元で怒鳴るひよ里の手は、言葉とは裏腹に優しくて。
「だいたいなあ、ウチは最初から反対やってん」
あのハゲにアンタなんて勿体ないわ。
その台詞で浮かんでくるのは、やっぱり真子の顔だった。
確かに出っ歯には違いないけれど、私はそのユルんだ顔がとても好きなのだと改めて意識する。
ユルんだ顔は彼の持つもうひとつの仮面で、その裏にはもっと鋭く尖った思想が潜んでいる事も分かっているからこそ、いつもの彼の顔が好きなのだ。
何もかもを曝け出せる存在として、彼の傍にいる自分が好きなのだ(だったら何故、こんな風に逃げようとしたんだろう)。
脳裡に想い浮かぶ姿は、低い声で私の名を呼ぶ。
鼓膜の奥で響くようなその声が、記憶の中だけで私の胸を詰まらせているなんて、ひよ里に言ったら笑われるんだろうか。
「ほんま、あんな情けないハゲ…やめてまえ」
「でもね、」
「迎えに来る勇気もあれへんカスやで?」
「それでも、やっぱり真子が好きだから」
口に出したら、自分の唇の象る音に泣きそうになる。
こんなクサい台詞、きっとひよ里は呆れてるんだろう、何も返事はなくて。
はぁー…と聞こえたため息に、後ろに立つ彼女の顔を覗き込んだら、眉根を寄せて唇を尖らせた微妙な表情が私を見下ろしていた。
その顔からは、
しゃあないな…って、彼女の心の声が聞こえて来そう。
諦めと許容が共存する姿は、真子のそれと重なって見える。
「いつも、ひよ里を頼ってごめんね」
「ウチは全然かめへんけど。腹立つのう、あのハゲ」
ほんまに迎えに来ぇへんつもりちゃうやろな?ボケ。 小さく聞こえた台詞で、きっと彼女はもう彼に連絡を入れてくれたんだろうという事が分かって、それを喜ぶべきなのか怒るべきなのか悩んでしまう。
意地を張り通したい気持ちと、数時間離れただけの彼への愛おしさを天秤にかければ、どちらに傾くのかなんて考えなくても分かり切っていて。
ほんまか?
ほな、風呂行くわ。 最後に聞いた真子の声が、繰り返し頭の中で聞こえたら、居ても立ってもいられなくなった。
「お風呂入ったら喉渇いたし、コンビニでも行ってくるね」
「気ぃ付けてな。風呂上がりのアンタはいつもより色っぽいねんから」
襲われんように。
ニッと笑うひよ里に笑顔を返して、財布だけを手に取る。
「大丈夫。そこらのオトコには負けないから」
「アンタが強いのは知ってるけど、どんなハゲオトコと出くわすか分かれへんやろ?」
私の気持ちなんて、すっかり彼女には筒抜けらしい。
恥ずかしくなって、取り繕うように言葉を続けたら、パシパシと痛いほどに背中を叩かれた。
「……ひよ里は…何かいる?ついでに買ってくるよ」
「ウチは何もいらへんって。ほら、」
鞄ごと持って行きぃ。
ぱすん。放り投げられた鞄が、腕の中にキレイに納まる。
もう一度ニッと笑顔を向けるひよ里に、照れ隠しの笑みを見せて
「行って来ます」
「うん。ほんまに気ぃつけや?襲われそうになったら、脛を思いっ切り蹴るか、顔面飛び蹴りや」
(戻ってけえへんくてもイイで) 最後の一文は聞き取れないくらい小さな声だったけど、ひよ里のことだからこう言って背中を押してくれたのに違いない。
ありがとう、いつもゴメン。 心の中で詫びると、静かにドアを閉じた。
◆
コンビニの前で、何本目かの煙草に火を点けた頃、近付いてくる霊圧に気付いた。
いつもより少し乱れたそれはあいつのモンに間違いない。
やっと来よったか。 指に挟んだ煙草を備え付けの灰皿で揉み消すと、彼女に向かって手をあげた。
「よう、何してんねん」
「しん…じ」
「えらい長い買い物やったやんけ」
「……真子は、なにしてんの」
手に持ったビニール袋を彼女の顔の高さまで持ち上げると、軽く揺らして。
「見て分からんか?お前と一緒に酒でも呑もう思て、たった今買いに来てん」
「……嘘つき」
「なんでやねん、ほんまやっちゅうねん」
「だって…、その袋。水滴がびっしりだよ」
しもた……
俺が此処で長いこと待ってたん、バレてるやん。
「あ…アホか、気のせいじゃ。ボケ!」
慌てる俺に寄り添って来るお前は、やっぱり気高い猫の目をしていて。
だけどその瞳から、いつもの寂しげな空気だけが抜け落ちていた。
「さ。帰ろ、真子」
「お前、なんか買いに来たんとちゃうんか」
「私の欲しいモノは、もう真子が買ってくれたから」
笑みを含んだ声で腕を絡めるお前の、霊圧がふわりと穏やかに変わった。
追い掛ける(ほんまに…難儀なやっちゃなぁ)
でも、そんな女が愛しいてしゃあない俺は、翻弄されることすら嬉しいのかもしれん。
一番難儀なんは、俺…か。