友人
あいつの居いひん部屋は、いつもと何にも変わらへんはずやのに、一人分の温もりが消えた以上に冷え冷えとして。
置かれたモノも、流れる空気も色褪せて見えた。
見上げた時計の秒針が奏でる小さな音は、まるで俺をバカにしてるみたいに安っぽく聞こえる。
それを打ち消す為、プレーヤーにお気に入りのCDを乗せて、スイッチを入れた。
なんでやねやろ。
好きやったはずの曲も、いまは鼓膜を上滑りするみたいに味気のう感じる。
ぽたり、水道の蛇口から落ちる水滴に寂しさを煽られて
洗いモンでもしといたろか。こんな時には気分を変えるに限んねん、普段はせえへんことをしなな。
向かった流しには、さっきまで並んで飲んでいたコーヒーカップがふたつ。
それ見た瞬間に、切なあてしゃあなくなった。
彼女が姿を消してから3時間、オレンジの光に満ちていた空はもう真っ暗。
とことん沈んでみるのもええかもな、俺には似合わへんけど。
あいつ帰って来た時、部屋真っ暗やったら驚きよるやろうなぁ。 部屋の明かりを消したら、室温が下がった気がした。
開けたままのカーテンの隙間からは、淡い色の月光がすべり込んで、室内を寂しい色に照らしている。
スピーカーから流れるストリングスの低音が、やけに頭の芯に絡み付く。
遮られた視覚のせいで、ほかの感覚が冴えるのは当たり前としても、感情まで冴え渡るのは厄介や。
メランコリックっちゅうのは、こういう状態やろか。
たったひとつ抜け落ちただけで、途端に世界のすべてが変質したように感じる。
それが唯一自分にとって必要なモンやったのにと気付かされる。
どこにおんねんな。 どこに居てるか見当ついてんねんけど、こうやって動かんとボーッとしてるのは、やっぱりなんか怖いせいやと思う。
動かれへん。
俺の顔を見て、あいつがもし表情を曇らせたらと思ったら、どうしようもない恐怖に囚われる。
恐怖心なんて久しく感じひんかった筈やのに、あいつの気持ちが俺から離れていくことを思えば、背筋がぞくぞくと震えるほどの恐ろしさを感じた。
"真子"と俺を呼ぶ、あいつの声が聞きたぁてしゃあない。
でも、それがもし何の感情も滲まへん声やったとしたら。苦しげな声やったらと思うと、やっぱり恐ろしい。
こんな所でじーっとしてる俺って、めっちゃ情けないやんけ。
情けないと自覚しつつ、何も出来ずにいる俺の心は、まるで真空になったみたいにたったひとつのことしか浮かばなくて。
隣でやわらかい熱を放つ、気高い猫のように澄んだ瞳。それでいて何もかもを諦めて受け入れとるような、少し寂しげな瞳を見つめたぁてしゃあなかった。
どこまで俺を。 薄闇の中、手探りで煙草をたぐり寄せて、火を点ける。
じりじりと伸びていく火種を眺めながら、頭ん中はやっぱり彼女の事で充満していくばかり。
肺の中に溜まった重たい空気をふーっと吐き出したら、携帯の着信ランプがピカピカと安っぽい点滅を見せた。
「なんや、ひよ里」
「なんやとちゃうやろ、何しとんねんボケ!」 ほんまは、液晶にひよ里の名前を見つけた途端に、飛び上りそうなほど嬉しくて。
その気持ちはそのままあいつへの想いの重さ。
居場所が分かって安堵する気持ちと、そこへ飛んで行きたい気持ちとの間で揺れ動く。
「何って、煙草吸ってんねんけど」
「はあ?」「ほんま、いきなり電話してきて煩いやっちゃなぁ」
煙草を揉み消す指は、動揺を映してやけにふるえる。
電話口の向こう、あいつの気配がないかと探るように耳を澄ます。
「そんなん言うててええんか?」「そんなんもこんなんも、訳わかれへんし」
「アホか!?真子、本気で言うてるんちゃうやろな」「本気て何やねん、何の用や」
「ウチとこ来てんねん。分かってんやろ?」
今は風呂入ってて、ここにはいぃひんけどな。 ああ、やっぱりお前んとこ居ったか(って、また風呂か?そんなんは、どうでもええけど)。
予想はついとったけど、それが確信に変わった瞬間に、どうしようもないほどの幸福感に眩暈がした。
なのに、シラを切ろうとする俺は、ほんまのアホや。
「は、来てるって誰が」
「決まってるやろ、ハゲの彼女や」「ハゲてへんわ!」
風呂で、もしかしたらあいつはこっそり泣いてんちゃうか、とか。ひよ里に説得されて俺と別れる言い出すんちゃうやろか、とか。
さっきから俺を支配しているマイナス思考が、変な具合に心を捉えてゆさぶる。
「お前なんてハゲや、ハゲハゲ―――!!」「ひよ里なぁ、どうでもええけど」
俺らの問題に首突っ込まんといてくれるか?
冷たく言い放つ言葉を呑み込むように、鼓膜の裂けそうな大声が聞こえて。
「はぁ?あんたらの問題なんやったら、ウチを巻き込まんといて」 誰が考えても分かる簡単な道理を、目の前に突きつけられたら、頭を殴られたような衝撃が走る。
そやな、ほんまにその通りや。
「うっさいわ、ボケ。鼓膜破れるやんけ」
友人(なにイライラしとんねん、ハゲ!)
真子がせなあかんことなんて一つしかないやんか。ほんま、アホちゃうか…何ぼーっとしてんねん、ハゲ真子!!
ひよ里のいつもの台詞が、やけに身に染みた。