家出

 抱きしめられた腕の中は温かくて、いつもの調子で紡がれる言葉も優しい。零れる声は、ほんの少しだけ悲しげで。
 それは真子が、私の些細な変化をちゃんと感じ取っている証拠なんだろう。

(可愛い顔、隠しなや)

 わざとふざけた台詞を選ぶ彼の本心が伝わってくるからこそ、今の不愉快な感情を押し通すのは馬鹿げていると思うのに、さっきの楽しそうな様子が浮かぶとやっぱり不愉快で。
 たまには意地を張り通してみるのもいいのかも。

 と言って、何の為に意地を通すのかは、自分でも分からないのだから、始末に負えない。
 その対象になる真子にしてみれば、不可解以外のなにものでもない行動だと思うけれど、だからこそ余計にその行動に執着してみたくて。

 気を引きたいとか、構って欲しいとか言う、子供っぽい感情など自分には無縁だと思っていた。
 生死に近接した日常で、甘えた考えなど持つ余裕もなかった。
 なのに今、安っぽい衝動に捕われているのは、現世に身を置き平和ボケしているからなのだろう。

 そこまで考えてもまだ意地を張りたいと思う私は、やっぱり馬鹿な女で。
 それだけ真子のことを好きだということには違いないけれど。

 俯いたら目に入る両肘の先。そこから続く真子のキレイな手は、もっと力を入れるのをためらうように小さくふるえている。
 その仕草を見ていたら、喉と鼻の境目辺りがツンとして、軽く鼻を啜った。


「なんや、泣いてんのか」
「……」
「可愛い顔が台なしやで」

 黙ったまま左右に首を振る。
 こんなに優しい声を出す真子が、いまどんな表情をしているのか、想像すれば鳩尾の奥にある器官が溶けそうになる。
 きっと切れ長の目尻を下げて、少し困ったような、これ以上ないくらいやわらかい顔をしているのだろう。

 意地を張り通すことに意味なんて見出だせなかったけど、顔を見たら負けてしまうことは分かった。

「なんで何も言わへんねん」
「……ん、晩御飯のメニュー考えてた」


(ほんまか?)

 後ろから抱きしめたまま、耳元で問い返されて、思わず本音が漏れそうになる。
 うっかりほだされかけたのは、私の意志の問題じゃなくて、真子の声が余りに深い思いやりに満ちていたから。
 真子のせいだ。

「うん。急いで行ってくるから、真子もお風呂入ってくれば?」

 首筋に巻き付いた両腕をひとつ、ふたつ、やんわりと剥がして。瞳を合わせないまま、寝室へ逃げ込んだ。

「ほな、風呂行くわ」
「うん、ごゆっくり」

 ドア越しに中途半端な会話を交わして

「ようけ買うんやったら一緒に行ったるから、上がるまで待っ……」

 真子がまだ喋っているのが分かっていたけれど、遮るようにドライヤーのスイッチを入れたら、もう何も聞こえない。

 躊躇したら、そこでダメになってしまいそうで。
 半乾きの髪を纏めて、身近な荷物を手に持つと、ふたりの部屋を飛び出した。







 そんな予感はしとったけど、風呂から上がったらお前の姿はやっぱりなくて。
 今日に限っては、そのうち帰ってくるやろ…なんて楽観できひん、妙な胸騒ぎがした。

 ぼんやり夕暮れの空眺めながら煙草ふかして一時間、いくら何でも買い物にしては遅過ぎる。
 あいつが逃げ込むトコなんて、リサかひよ里ん所位やて分かってるから、そんな心配する必要はないねんけど。
 俺のせいで此処にいてるのがしんどなるほどの想いをさせてしもたんなら、それが哀しくて。

「ほんまアホな女やなあ」

 何がそないに不安やねん。
 姿見えへんだけで、俺の頭ん中はお前でいっぱいになってんねんぞ。

 独り言を呟きながら、募るのは愛おしさばかりで。
 むしろ、いつも手の届くトコに居てて当たり前の存在が此処に居てへんことで、より鮮明に彼女のことを思い浮かべてしまう。
 さっき抱きしめた細い身体の感触が腕に胸に迫れば、そんなにも愛おしい存在を無意識に苦しめた自分が、余りにも無力に思えて悔しかった。


家出
(いつまで意地張っとんねん)

 お前の居場所は此処やろ――
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