泡沫をあげる
隣合わせでソファに腰掛け、取り敢えず手元の資料をめくる。
仕事振りを信頼しているからこそ、本当は事前に目を通す必要なんて感じなかったけれど。一瞬見せた堅い表情と、その後の余りに鮮やかな笑顔との差異にやられて。
少しの間、
彼女を独占したくなった。
泡沫をあげる 軽く触れ合う膝頭から伝わる体温。
鼻腔に入り込む香りはあの晩の甘さを乗せ、心を擽る。
ペンを持つ互いの指が、紙の上、微かに掠めて。気が付けば細い腰に手を回していた。
「奈良さん、困ります」
「分かってたんだろうが」
「コーヒー、冷めない内に飲みましょう」
「後でいい」
「誰が来るか分かりませんし」
「それがいいんじゃねえか」
ふっ……吐き出されるため息は、決して苦しそうではなくて。だけど眉間にはうっすらと皺が浮いている。
その表情は、見惚れるほどに色気があった。
化粧をしたばかりのなめらかな肌、頬が上気して見えるのは、さされた紅のせいだろうか?
まだ何物にも乱されていない、完璧なリップラインが、至近距離で艶やかに俺を誘う。
「スリルも楽しみのひとつ、ってことですか…」
「まあな」
「奈良さんらしいですね」
「だろう?それから、」
その呼び方、今はやめろ。
瞳を見合わせて、互いに口角を吊り上げる。
応接テーブルの上、持っていたペンは、からからと渇いた音を立てて指先から滑り落ちた。
「シカク」
呼び方が変わっただけなのに、響きは途端に糖度を増す。
ずくり、胸の痛みとともに、心臓が騒がしく脈打ちはじめる。
一度線を踏み越えたせいで、境界が曖昧になっているのか。
ラインを引くこと自体、たいした意味を見出だせない己に欠陥があるのか。
回した腕に力を込めて、ぐいっと引き寄せると、空いた一方の手をスカート越しの太腿に這わせた。
そっと添えられる掌は、俺より幾分か温度が低い。
浅黒い自分の手の上、白く細いお前の指。そのコントラストが、何故かやけに厭らしい。
やわらかい脚の形を確かめるように、ゆっくりと掌で腿の表面をなぞる。
(しょうのない人…)
(悪ぃな)
言いながらスカートの裾を、ほんの少しだけ捲り上げる。
僅か数センチの露出が、驚くほど卑猥に見えるのは、場所の効果か。
(全然悪いなんて思ってないくせに)
(オメェも、嫌いじゃねえだろ?)
共犯者の笑みを浮かべた唇で、口づけを一度。
「甘ェな」
「ええ。やっぱりお砂糖は要りませんでしたね」
「ああ」
少しだけ依れた口紅は、自分がそうしたのだと思えば煽情的で。
これ以上リップラインを乱さぬよう、そっと舌だけを差し出すと、唇の距離を保ったまま、舌先を絡める。
小さく響く水音。
華奢な肩に手を掛けて、ソファに沈めたら、不自然な姿勢のせいで浮き立つ鎖骨。
細い首筋に出来た窪みに、瞳が吸い寄せられる。
小さく身じろぐと、ソファのスプリングが軋んで。爪先を彩るパンプスが、片方だけコトリと小さな音を立てて抜け落ちた。
下から俺を見上げる双眸は、既に潤んでいる。
愛おしそうにこめかみの傷痕を辿る指は、さっきよりも体温を上げて。僅かな温度差が、接触面からじわりと俺の中に染み込む。
「シカク……」
名を呼ぶ響きの圧倒的な甘さ。
それに溺れそうになった瞬間、
無機質な呼出し音が、部屋に響いた。
「はい、応接Aです」
素早く立ち上がると、居ずまいを正しながら受話器を取った彼女は、既に事務的な声。
「朝一アップの資料ですか?」
それなら、奈良さんの指示で一時保留中です。
並足か……週末に指示だけして、その後フォローすんの忘れちまってたなァ。
「いえ、奈良さんなら此処に今一緒にいらっしゃいますが」
それにしても、並足のヤツ…なんつうタイミングで邪魔してきやがる。後で何か仕返ししてやらねェとな。
「分かりました、お伝えしておきます。お疲れ様です」
受話器を置き、近寄ってくる彼女と見つめ合い、小さく苦笑する。
「並足さん、急ぎでご相談らしいですよ」
「待たせときゃいいだろ」
互いにコーヒーカップを手に取ると、
「随分お困りの様子でしたが」
「ったく…どっかで見てやがるのか」
温くなった液体を喉の奥に流し込む。
内線の間抜けな響きで、一気に色を失った空気に、ため息が漏れた。
「お先にどうぞ、」
私は此処を片付けてから戻ります。
「ああ。頼む」
「はい」
「それから………」
同じタイミングで立ち上がる。
見下ろしてニヤリ、口端を歪めると、案の定不思議そうな顔。
「化粧も直せよ」
「ええ、もち……っん」
彼女が返事を終える前、キツく唇を吸って。一度だけ強く抱き寄せると、踵を
返した。
泡沫をあげる(続きはまた、ゆっくりな…)
2009.02.06
最後に思い切り彼女のメイクを崩して立ち去るシカク