ふれるたびよわくなる
月曜日のオフィスには、いつもと変わらぬ彼の姿。
(なんだァ、寝不足か?)
きちんと絞めたネクタイの上、言葉にあわせて喉仏がぴくりと動く。
その僅かな動きですら、見逃したくないと思う気持ちは、何故か見咎められてはならないものだと直感が告げた。
どこか茶化すような無防備な笑顔を、こんなに近くで見ているのに、小さく吐き出されるため息の意味は分からないまま。
あなたはやっぱり遠くて――
ふれるたびよわくなる あんな夜を過ごしたのだから、何かが変わる。そう信じるほど、子供ではなかった。
彼の帰った後、ひとり残されたマンションが急に色褪せて見えたのも、肌に触れていた十指の感触がいつまでも消えてくれないのも、私の名前を呼ぶ低い声が鼓膜に絡み付いて離れないのも。
汗と体臭と香水の混じり合う噎せるような香りを、嗅覚が焦がれて止まないことも。視線の交わる瞬間、互いの網膜に確かに存在していた感情も。
全部ぜんぶ本当で、消えてなくなった訳ではない。
ただ、
彼と過ごした際の記憶と感覚の全ては、あの瞬間限定のいつもは味わえないもので。だからこそ、その瞬間は何にも変え難い価値があるのだと思えれば、それで良い。
「おはようございます、奈良さん」
「…ああ、おはよう」
境界線を引くように堅く声を発して、笑顔で見上げたら、"一度寝たからと言って勘違いする類の女ではない"との意志表示が出来ると思ったのに。降ってきた掠れ声に耳たぶをゆるりと撫でられて、くじけそうになった。
(どうした、笑顔が堅ぇぞ)
(そんなことないですよ?)
反論しながら、彼の脱いだジャケットを受け取って、ハンガーに掛ける。
その直前、ジャケットに隠れて強く手を掴まれて。絡んだ指先から伝わる熱は、そのまま彼の感情の現れだと思えた。
見つめた瞳は真っ直ぐに心の奥を刺す。
ふわりと微かに漂ういつもの香水の匂いに、自然と口許が緩んだ。
「ちゃんと笑えんじゃねえか」
その顔の方がさっきよりずっといい。
「ありがとうございます」
ニヤリ、唇を歪める彼は、同時に僅かだけ鋭い目付きをやわらげる。
たったそれだけで、どんな言葉よりも深い想いが伝わって。
――彼を相手に、悩むなんて馬鹿げている。意思表示を欲すること自体、寝た事に拘っている意識の表れで、それこそが下らないことだ。
すとん。心に落ちてきた思考に、目の前が晴れた。
「本日午後の会議資料、既に用意出来ております」
「じゃあ目ェ通しとくかァ」
面倒だがオメェも付き合え。
交わされる視線には、何かを共有した者にしか分からないほんの微かな合図。
「では、役員応接Aを押さえておきますので」
先に行ってらして下さい。コーヒーを煎れたらすぐに参ります。
返事の代わりに肩を2、3度撫でられる。
その後そっと加わる外圧。
指がシャツ越しに皮膚へ食い込む感触に、じわり、心がほどけた。
大丈夫だ。
彼のことは理解出来ないけれど、彼の気持ちは充分に伝わってくるから。
私は大丈夫。
「早くしろよォ」
「はい」
コーヒーはいつも通りブラックでよろしいですか?
問い掛ける私に顔を近付けて、
(甘ェのはオメェだけで十分)
さらりと無造作に吐き出された台詞は、いかにも彼らしくて。微笑みを浮かべたまま、軽く肩を竦める。
「では、私もブラックの濃い目に」
「ほォ」
なんでだ?と問う彼は、きっと私の考えなんて全てお見通しなのだろうけれど。言わせてくれるその余裕は、私を少しは認めてくれてるという事なのだと思えば、嬉しくて。
「奈良さんは、私以上に甘過ぎますから」
「言うじゃねえか」
くく、と咽喉を鳴らして笑う彼の背を、そっとドアから押し出した。
ふれるたびよわくなる
(部屋移ったら名前で呼べ…)
続けることが問題を複雑にする訳じゃなくて、ただ続いていくのだ。始めた時点で彼は私の全てを受け止めていたのだから。
触れられた瞬間に心が溶けたとしても、一時的に弱くなっても、結局は私も彼も何も変わらない。ただ目の前の感覚を信じるだけ。味わうだけ。
"余計な事を考えない"って、きっと、そういうこと――