そこにある悲哀

 熱い息遣いが部屋を満たす。
 しっとりと汗ばむ彼の肌は、逆上せてしまいそうな濃い雄の匂い。
 頬を擦り付けて、吸い込んだ香りに、意識はぐらぐらと揺らぐ。

 今日がこんな日になるなんて

 思ってもみなかった。



そこある



 酩酊の感覚はアルコールのせいではなくて、彼のせい。
 初めて見せられた彼の上半身は、見惚れるほど綺麗に引き締まっていて。浅黒い皮膚に透ける筋肉のラインに、息を飲んだ。


「奈良さん……っ」
「その呼び方は止めろ」

 手を伸ばしても届かないと思っていた指が、いま私に触れている。
 理解出来ないと思っていた男は、理解出来ないまま私の中に入り込む。

 シーツの海であなたに溺れている自分が、夢を見ているように思えた。

 何故とか、どうしてとか、そんな疑問符は甘い痺れで打ち消されて。ぐい、とグラインドする腰の動きに、吐息が漏れる。
 眉を顰めた表情に、うっとりと酔いしれる間も与えられず、身体を揺さ振られる。


「な、ら……さ」
「違うだろうが」
 止めちまうぞ。

 そう言いながら、逆に腰を強く引き寄せられて。きゅっと歪む薄い唇が、ゆっくりと愛おしそうに私の名を象る。
 鼓膜を低い声が撫でる感覚に、身体中から力が抜ける。
 なのに、爪先だけは意志の制御を外れてぴんと反り返っている。


「シカ…クっ」

 呼んだ刹那、硬い熱が最奥を穿った。

 がくがくと震える身体を押さえ付け、弄ぶように粘膜を刔られて。意識が真っさらに溶け始める。
 繋がった部分が熱を持つ。打ち付けられる度に、内壁が収縮して、彼のカタチをよりリアルに感じる。

 怖々と触れた胸は、どくどくと荒い呼吸を伝え、その温かさに鼻の奥がツンと痛んだ。
 見上げた視界には、何を考えているのか分からない男の顔。それが悔しくて、唇を噛み締める。


「下らねえ事考えんなよ?」

 そっと頬に触れる指は、まるで壊れ物を扱うように優しくて。無造作な台詞とのコントラストが、鳩尾の辺りを潤ませる。


「俺を感じてろ」
―他のことは頭から追い出しやがれ…

 そんなことを言われなくても、脳は既に正常な働きを放棄し始めていて。徐々に早まる律動で、彼の言葉は意味を失う。

 返事の代わりに漏れるのは、ただの嬌声。
 吐息を掬うように塞がれた唇が、言えない愛の言葉をも飲み込んで行く。

 近付けないと思っていた人は、ぴったりと隙間なく繋がっていて。

 距離はゼロ。

 物理的にはこんなに近いのに、何故かやっぱり手が届かなかった。



そこある

(このまま世界が終わればいい)

 だから、余計なことは考えんなって言ってんだろうが。
 お前にそんな顔させるために抱いた訳じゃねえぞ……阿呆。
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