愛ならば欲しかった

 ひとりきりのオフィスで黙々と仕事をこなす女は、硬い空気を纏っている。

 削ぎ落とされたなめらかな頬には、ディスプレイからの青白い光。
 馬鹿な総務部の上っ面だけの景気対策で、彼女のデスクの周り以外は薄闇。そのなかで、彼女の身につけた淡い色のシャツと、持って生まれた白い肌が異質の彩を放つ。

 首筋に纏わり付きやわらかく波打つブラウンの髪、時折怠そうに腰をさする仕種はある意味官能的に見えた。
 書類とディスプレイを行き来する双眸は、人工的な明かりを映している。控えめな機械音だけがきこえる静かな空間では、動作の度に瞬かれる睫毛の音さえ聞こえて来そうだ。

 離れた場所から見れば、ぼんやりと浮かび上がる幻覚のような光景。

 そっと開いたドアの隙間から、その姿を堪能して数分。わざと足音を響かせて、シカクは彼女の方へ近付いた。



ならばしかった




「お待たせしました」

 小さなノックと共に、背後の扉が開く。
 煙草を揉み消す指に注がれる視線が、やけに艶っぽく感じるのは、願望のフィルターが作用しているからだけではない。
 コートを羽織り、若い女性には不似合いな大きさのバッグを手に持つその顔は、うっすらと染まっている。

 チークを入れ直したのか、それともこの後の時間への期待が彼女の自然な血流を促したのか。どちらにせよ、俺が異性として意識されていることは間違いないようだ。


「何を入れてんだァ、デカい鞄持ちやがって」

 彼女の肩へ手を伸ばし、無理矢理荷物を奪い取る。ずしりと重いそれは、おそらく仕事の資料だろう。
 こんな時間まで残業した上に、更に自宅でも仕事する気か?

「オメェも融通のきかねえヤツだなァ、休みはしっかり休むモンだ」
「でも、少しだけでも進めておきたくて」

 その台詞は、上司への陳腐なアピールというよりも、彼女の本心なのだろうけれど。簡単に家に帰れると思っているのだとしたら、それは俺を買い被り過ぎというものだ。

「ダメ、ですか?」

 上目づかいの問い掛けに、胸がどくり、騒ぐ。
 男と女がふたりきりで飲みに行けば、ふつうは起こらない間違いだって簡単にハードルが下がる。ましてや、それが互いに好意を持ち、異性として意識している相手なら尚のこと。
 勿論、そんな下心だけで誘った訳ではないが

「別に駄目じゃねえけどよォ」
「良かった」

 くしゃりと綻ばせた顔を至近距離で見せられて、冷静でいられるほど出来た男でもない。

 やべえなあ。
 心の中だけで呟く俺に、向けられる無防備な表情。艶やかに湿った唇は薄く開き、信頼し切った瞳は僅かに潤む。
 その、意図の無さが余計にやべえ。

(今日はそんなモン持ち帰っても無駄なのによォ)

 口元を歪めながら独り言を漏らすと、さらに不思議そうな表情が俺を見上げる。

「奈良さん、何かおっしゃいました?」
「いや、別に」

 嘯く俺に向けられる瞳が、微かに揺れている。
 そんな顔見せられると、オヤジっつうのは調子に乗るモンなんだって、知らない訳でもあるまいしと思いかけて、いや、気付いてねえからこそのこの表情かと自分で訂正する。これ位の歳の女ってのは、無意識で男を煽りやがるからいけねぇ。


「さっさとしねぇと置いてくぞ」

 先に立って歩けば、後ろからカツカツと響くヒールの音。
 事務所のドアに鍵をかけて、薄暗い廊下を真っ直ぐに進む。

 小さな明かりの灯るEVホールまでの数十歩が、限りなく遠く感じるのは気のせいだろうか。
 ごくりと唾を嚥下する音まで響きそうな静寂。

 何故俺が、並足に指示を出してお前に残業をさせたのか。そして、何故こうして飲みに誘ったのか。気付かないほどバカな女ではないはずだ。

 狭いEVの中ワザと肩をぶつければ、息をのむ音が聞こえて。その淡い空気の動きに、笑いたくなった。
 それは、俺に余裕があるからではなくて、むしろ珍しく気が張り詰めているから。

 緊張っつうのは、伝染するモンなのかも知れねぇな。

 ふっ……
 肩を揺らして笑えば、案の定不可解だと言わんばかりの反応が返ってきて。

「どうかなさいました?」
「説明し辛ぇんだけどよォ。ただ、」

 1階に到着するまで残りあと数秒、ぐいっと細い腰を抱き寄せる。
 その行為が、気持ちを少しは伝えてくれるだろうか。

 さっきまで、離れた所から見つめていた幻影のような存在が、今は確かな熱を持ってこの腕にある。
 それだけで静かに高まる感情は、ただの欲望で片付けるには余りに濃くて。
 愛情というには頼りない。


「あ、の……」
 離してください。

「聞けねえな」

 安っぽい電子音とともに開いた扉を、クローズボタンで再び閉じる。
 出来上がった密室で言葉もなく見つめ合えば、勝手に高ぶる鼓動。

 やっぱりやべえよなあ。

 投げ掛けられるのは、怯えに良く似ているのに、明らかに期待している視線。
 そんなものを見せられたら、普通の男はどうなるか。

 知っててそれを見せているのなら、たいした小悪魔だ。

 でも

 そこに意図があろうとなかろうと、もう引き返すつもりはねえがな。


「今夜は最後まで付き合え」
 オメェの所為だ。

 キツく腰を抱き寄せて、耳元で低く囁く。それは言わば、誠実な卑猥さ。

 小さくふるえる身体に身を擦り寄せると、潤んだ瞳を見下ろして。箱を満たす噎せるような空気に、ふたりで翻弄されて。

 背筋を走る感覚に堪える今を

 ひそかに愉しんだ。


 オメェの目に浮かぶその色が――


ならばしかった
(覚悟はまだ、いらねえ)
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