その背に滲むのは、

 ため息ひとつで感情を現す人は、私の理解の範疇を越えた人。
 誰よりも理解したい人。

 そして

 気が遠くなる位に遠いとおい人。



その背にむのは、




「まだやってんのか」

 背後から届いた低音に、すこし肩が揺れた。奈良さんの声だ。

「はい」
「ほどほどにしとけよォ」

 ぽんぽん、と肩を軽く叩くやり方は、まるで子供をあやす時のそれ。なんだろう、複雑だ。


 一時間程で終わります、と答えながら一瞬だけあげた視線を すぐにディスプレイに戻したのは、照れたせいだけではない。
 ふん。短い相槌を打つ彼の表情が、自分の予想とはあまりに外れていたからだ。
 仕事の出来る有能な部下を気取って、一分の隙もなく残務処理を進めながら、脳の大半は先程の奈良さんの表情の意味を見出だすことに割いている。

 やわらかく緩み、弧を描く口許。
 うっすらと細めた瞳。
 たとえば。
 たとえばあの軽く組まれた腕のなかに包まれたら、どんな気持ちになるのだろう。
 文字通り、彼の懐に忍び込むことが出来たなら。などと馬鹿なことを考える。


 キュッ…――

 すぐ傍でキャスターが小さく軋んで、奈良さんが腰をおろした事を伝えた。

「お茶でもお入れしましょうか」
「いや。それより、さっさと終わらせちまえ」

 続いたのは「飲みに行くぞ」という、まるで私の心を見透かしたような台詞。

 ねえ、知っていますか。
 私は、あなたのそのたった一言が、ふるえる程に嬉しい。
 いびつに歪んだ表情の奥に潜むのが、どんな感情なのかただの気まぐれなのかも分からないけれど。
 例えばそれが上司としての労いに過ぎなくても、ただの下心だとしても、奈良さんがすこしの時をともに過ごす相手として私を選んでくれただけで幸せだ。

 青白い光を放つ画面には数字の羅列。
 ちっぽけな虫の群れのようなランダムな数字たちが、私たちの生活を大きく左右するものであるなんては、普通に考えれば不思議だけれど、それがこの世の(そしてこの業界の)真実で。
 私に与えられた仕事が、自分だけでなくそれ以外の沢山の社員たちの未来へかかっている。

 でも、
 いまは大切なそれすら意識を素通りしそうになっている。

 隣に座った奈良さんの、軽く捲くった袖口から覗く肌が視覚をフリーズさせる。かすかに漂うスパイシーな香水は、嗅覚を麻痺させる。

「5分で支度しろ」

 耳元にきこえた低い声が、聴覚をそっとと撫で上げる。触れてもいないのに。

「む、無理ですよ…まだまだやる事は山積みで……あっ、ちょっ!?」

 隣からにゅっと伸びて来た指が、滑らかな動作でマウスを操る。
 節くれだつ長い指がきれいだ。見惚れてしまう。

 くくっ…――

 見惚れていたら、掠れた笑い声で我に返る。
 驚きで目を見開いた私の耳に響いてくるのは、無機質なシャットダウン音。

 ――なんて無情。私のこれまでの作業はムダ?


「こうすりゃしまえんだろ」
「……奈良さん、酷っ」

 すごい時間かかったのに、ここまで仕上げるのにものすごく神経もつかったのに。
 なじる言葉が口に上る寸前。

「阿呆か」

 聞きなれた奈良さんの口癖が聞こえた。

「保存もせずに消す訳ねぇだろうが」

 そうなんだ、良かった。でも、

「月曜の朝一で欲しいと指示されてるんです」
 だから、今日中にやらなくちゃ。

「必要ねぇ」
「でも、並足さんに…」
「アイツに指示したのは俺だ」

 煙草でも吸ってるから、さっさと上着取ってこい。

 呆然としている私の手を取って、優しく立ち上がらせてくれた彼は

「待つのは5分だけだ。早くしやがれ」
「……はい」

 私の返事を聞くと、再び歪に笑って。
 窓際の喫煙室へと、吸い込まれて行く。

 すっかり陽の落ちた外からは、哀しくなる位の月光が薄く差し込んでいた。



その背にむのは、
(哀愁よりも濃い、なにか)

ライドウへの指示は勿論態と、だ。お前をここに一人きりにさせる為に…な。

2009.01.26
先天的テクニシャンなシカクさん
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