夕闇と落下する

 帰りが遅くなったある夕方。
 すっかり陽の落ちた校舎のなか 足元ばかり見ながら歩いていたら、廊下の角を曲がりしな 誰かにぶつかった。

「痛、」
「すみません」

 薄暗いそこでは、相手の顔もよく見えない。ひとまず謝って、ぶつかった拍子に落とした鞄から散らばった荷物を拾い集める。

「なにやってはるんすか、先輩」
「…財前くん?」
「ほんまドンクサイっすわ」

 憎まれ口をたたきながらも、荷物を拾う手伝いをしてくれるところが彼らしい。決して分かりやすい優しさなんて見せない子。

「うるさいで」
「なんすかそれ、突然ぶつかられたのに文句も言わんとドンクサイ先輩の尻拭い手伝うたってる後輩への言葉がそれですか。ほんま酷いヒトっすわ」

 薄いくちびるから、さらさらと流暢に流れだす憎まれ口がにくたらしい。

「さっき謝ったやない」
「足りませんね」
「なにそれ脅迫?」
「ちゃいますよ、教育っすわ」
「財前くん腹立つ」
「はいはい」

 そう言いながら彼が最後の落とし物を手渡すさいに、指先が一瞬だけふれた。涼しい顔をしてるくせに、思ったより体温がたかい。

「ところで、今までなにしてはったんすか」
「言いたくない」
「ああ、知的レベル足りひんヒト専門の補習ってヤツっすね。聞いてすんません」
「別にええやんなんでも」

 財前くんに関係あらへんし。そう続けたら、ほんのすこし彼の表情が歪む。私、なにかマズイことを言ってしまっただろうか。

「なんて顔してんの」
「別に。先輩には関係ないっすわ」
「ならええけど」

 お先に、と言い残して彼の脇をすり抜けようとしたら、腕をつかまれた。

「なに」
「ちょっと待っといてください」
「なんで」
「外暗いから送ったります」
「ええよ、大丈夫」
「一応先輩も女やし」
「私なんて誰も襲わへんって」
「……」
「気持ちだけありがたくいただ、」

 っ!?
 なに?

 とん、肩に鈍い衝撃が走った。と思ったら、校舎の壁にいきなり背中を押し付けられていた。反動で、取り落とした鞄からふたたび荷物が散らばる。拾ったばかりなのに面倒くさいな、と頭の片隅で思うよりなにより、状況をうまく把握できなくて困惑する。
 財前くんが近い。みあげたすぐそこに、並んだピアス。

「どない、したん」

 私の問いかけには答えず、財前くんは口角を持ち上げる。その表情がやけにかっこいいから、動悸が乱れている。
 なんなんこれ。なんなんこれ。ちょっと待って。ほんま、ちょっと待ってください。

 心臓にわるすぎるこの距離から抜け出そうともがいてみるけれど、財前くんの両手は思ったよりしっかり肩に食い込んでいる。すこしも、身動きがとれない。
 間近でみたら財前くんってほんまに整った顔立ちしてんねんなあ、とか思ってしまったら、なおさら心臓が騒ぎはじめる。焦ってもがけば、ますます財前くんの拘束がきつくなる。
 端正すぎる顔を見ていられなくて顔を背ければ、わざとらしく覗きこまれて。

「ほら、」
「え?」
「先輩なんもできひんやん」

 言いながら、財前くんの両手が肩からすべりおちて。指と指とが絡み合う。
 しっかり絡めた手のひらを、顔の両側で壁に縫いつけられる。一方的に肩を抑えつけられていたさっきまでより、にわかに空気が色を増す。逃げられない。

「……」
「こんなん簡単に襲えるで」

 いつもより低い声に、ちいさく息をのむ。そんな私を見て、財前くんはにやりとくちびるを歪める。沈む夕陽のさいごの光が、彼のピアスを照らして。そのちいさな光が胸の真ん中にやわらかく刺さって。痛くて。苦しくて。うれしくて。

「なんか反論でもあります?」
「……ない、です」
「ようできました」

 得意げな顔で見下ろされるのが、ぜんぜん厭じゃなかった。ああ、私この子のことが好きなんだ、と思った。
 だから、額にそっと落とされるくちびるを、避けようとは思わなかった。
 
 なに簡単に落とされてんの、私――



と落下する
(まあ、俺以外には襲わせへんけど)
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