初期記憶継続中

「しのびあしくん」

聴覚が柔らかい音の粒を拾い上げる。控え目なトーンだけれどしっかり主張する意志のこもった響きが、やさしく鼓膜を撫で下ろす。
ほんまええ声やな。ところで しのびあし なんていうふざけた名前の奴 この講義受けとったか?

「しのびあしくん」

もう一度同じ声が名を呼ぶ。やっぱりええ声や。しのびあし、シノビアシ、忍び足……忍び…足……忍…足………忍足って、え!?もしかしてオレのことなん?
超高速回転する脳内でたっぷり考えること約3秒。先程から彼女が呼んでいるのは自分なのだと気付いた瞬間に、三度目の声が聞こえた。

「しのびあし…くん?」
「誰やねんそれ」
「良かった、寝てるのかと思った」
「寝てへんで」
「あのね…」

相変わらずの柔らかい響きにうっかりスルーしそうになったけど、ちょっと待て待て忍足侑士。名前やナマエ。

「いやいやいや、あのね ちゃう。しのびあして誰や」
「貴方、ですけど」
「自分寝ぼけとるんか」
「うーん、起きてもうだいぶ経つけど午後一の講義って確かに眠いよね」
「ちゃう」
「え、眠くないの?」
「そういうことちゃうねん」
「じゃあやっぱりしのびあしくんも眠たいんだ」
「………」
「しのびあし、くん?」
「それそれ、そのしのびあしや」
「へ…?」
「へ、ちゃうで。抜き足差し足忍び足って俺はどこぞの忍者か。おしたりや、お し た り」

俺がそう言うたら彼女は可愛い顔して不思議そうに首を傾げる。さして親しい訳でもない、というより喋ったこともない彼女に話しかけられただけで驚いているのに、何やその予想外のボケっぷりは。

「え…何を押す、」
「……ちゃう」
「押したり引いたり」
「ちゃう言うてんねん、わざとか」

ほんまもんの天然や、ド天然おったわここに。誰か来て、はよ俺のこと助けて。

「ああ!ツボの話?」
「は?」
「眠い時に押せばいいの、どこ?」
「何やねんそれ」
「眠気にきくツボがあるとかそういうことでしょう。流石しのびあしくん。東洋医学もしっかり押さえてるんだ」

医者の卵としては私も勉強しておいた方が良いのかな、と呟きながら少しだけ尖らせた唇が、午後の教室には不似合いに見えて。心臓のずっと奥の方が微かに跳ねた。

「ちゃうて。眠たいのから離れて」
「心地好い睡眠を促すツボなら知っ…」
「離れろ」

もやっとしとるんは事実やのに、どっかでまだええ声やなと思っとる俺はアホなんやろか。伊達眼鏡の奥からそっと視線を注げば、困惑していますと絵に描いたような表情の彼女がこっちを見とる。その上目遣いもええ感じやね……やなくて、名前や名前。忍足侑士しっかりせえ。

「……………」
「ナ・マ・エ」
「私の?」
「ちゃうわ、俺のや」
「しのびあしくん、でしょう?」

何度目だか分からないそのフレーズに危うく慣らされて、もうしのびあしでもええわって思ってしまいそうな自分が怖いわ。なんやこの無駄な順応性の高さ。

「お・し・た・り」
「おした…り、引いたり?」
「…………」
「上げたり、下げたり?」
「もうええわ」
「で、しのびあしくん。ちょっと午前の解剖学のノート見せて」

またループしそうな会話が面倒になって否定を諦めノートを差し出せば、彼女は綺麗な笑顔になって得意げに口走る。

「ほら、やっぱりしのびあしじゃない」
「………ちゃう」
「嘘つき。ノートに名前書いてあるし」

忍 足 って、ここに。言葉を続けながら俺の名前を辿る指先がやけに白い。すらりと伸びた女の子の指。

「教えといたるわ」
「なにを?」
「漢字。それな、忍に足って書いておしたり読むんや」
「……うそ!?」
「嘘ちゃうで。最初からそう言うとるやろ」
「ごめ……」
「別にええよ、もう」
「でも、しのびあ……おした、忍足くん忍足くん忍足くん…よし。忍足くんに悪いし。忍足くんに悪いし」
「いま何で二回言うたん」
「なんとなく」
「訳分からんわ」
「私も分からんわ」
「真似すんなや」

そんなこんなのファーストコンタクトを経て俺と彼女は急速に距離が縮み今に至っとる。
なぜ今頃こんなシーンを回想しとるかの理由は、いつもアホみたいに素っ気ない彼女が珍しく乙女紛いの質問をしてきたから。


「で、なんで私と…?」
「急に何やねん」
「昨日の夜ふっと頭をよぎって、考え始めたら眠れなくなったからです」
「それ、理由になってへんよ」
「まあイイじゃん。なんで?」

言い募る割には切羽詰まっている様子もない。だいたい彼女は一つのことを考え始めると全力で突き詰めたくなる性質でそこから逃げようと思っても無駄だし、別に逃げる必要も感じなかった。

「ええ声やったから、かな」
「ああ……しのびあしくん」
「そう、それや」

あの出会い最悪やったで、ほんまに。

「今でも呼びそうになることあるよ」
「何でやねん」
「人間最初に記憶したことって、意識の奥深くに沈んでいて時折ふと浮かび上がったり…」
「せえへんわ。勘弁してや」
「はいはい、しのびあしくん」

柔らかい相槌とともに笑う彼女をコツンと小突きながら、やっぱり俺のカノジョはええ声やと思った。


初期記憶継続中
最初に刻まれた彼女の姿を忘れられないのは、たぶん俺。
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2010.12.20
忍足くんの名前、最初読めませんでした
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