万有引力。

忍足侑士は窓際の席が好きだ。そこから見る埃っぽい教室は、背後から差す光のせいで洋画のワンシーンのようにどこか現実味がない。薄暗い教壇では白衣を着た教授が流れ作業のように淡々と板書を繰り返している。退屈だ。
それで何となく自分の隣席にすわる彼女を盗み見た。いつからか同じ講義はこうして並んで受けるのが当たり前になっているけれど、彼女とはべつに特別の間柄ではない。ただ第一印象が強烈で何となく波長が合って、一緒に居るのが心地好い友人。いまは。

「おはようさん」
「おは…よ」

雪女。
じっくり分析する以前に浮かんだ単語がそれだった。とにかくめっさ顔色が悪い。もともと色白の肌はすっかり血の気を失い、見ているこちらの方が寒くなる。

「自分、顔青いけど大丈夫なん」

気付いた途端問い掛けずにはいられなくなるほど褪めた横顔。薄い皮膚をすかして隈の見える頬と、窪んだ瞼が痛々しい。完璧に寝不足の症状だ。

「誰のせいだと…」
「どういうことや」
「忍足くんのせいだから」

思わぬ返答に驚いて、眼鏡の奥で眉間にシワを寄せる。そう言ったきり彼女は俯いて口を噤む。意味がわからない。さっぱり意味が分からない。

不自然な沈黙を縫うように、気怠げな教授の声が遠く響いている。何でやねん、とぶつくさ心で呟きながら、俺は彼女の観察を続けた。窓からの光に、小さな横顔が照らされている。
忍足くんのせいだから、彼女のか細い声が頭の中で反響している。耳のずっと奥のほうで何度も。忍足くんのせいだから。忍足くんのせいだから。言葉の意味はいくら考えてもわからないけれど、改めて彼女の声が好きだ、と思った。

声以前に俺は彼女のことが好きだ。かわいいと思う。だけど好意をあらわにしたことはないし、彼女の方もそう。
そら健全な男子としては、気になる女相手にたまには夜も寝かしてあげられへん類の妄想をすることもない言うたら嘘になるけど、あくまでも想像の域。実際にそんなことしてる訳ちゃうし、したくてもなかなか出来ひんし。それに少なくとも昨日はまったくその種の妄想をした覚えがない。
ここで例えば彼女が「忍足くんのこと考えてたら夜も眠れなくて…」とか言うてくれたら俺も本気になって口説く勇気出そうなんやけど、まさかコイツが簡単にそんなん言う訳ないし――…


「昨日忍足くんのこと考えてたら眠れなくなったの、責任とって!」
「はァ?」

なのに考えていた通りの言葉を彼女が口にするから、思わず変な声が漏れる。どこかに沈澱させていた思いが、ぐぐっと一気に胸を押し上げたような不思議な感覚に包まれる。心臓がどくり、脈を打つ。慌てた俺は崩れそうなポーカーフェイスを必死で引き締めながら、ついその気になる。
それって期待してもええってこと?責任とって、ってどういう意味やねん。ただの気の合う同回生から少しは昇格したと思ってええんやろか。

「だから、一晩中眠れなかったんです」
「………」

待てまて、落ち着け俺。これだけじゃまだ何も分からへんやないか、と必死で言い聞かせながらも心は勝手に膨らんでいく。

「忍足くんのせいで」
「自分なァ」

遠回しな告白としか思えなくて、そんな彼女を可愛いと思った瞬間に身体が勝手に反応する。テニスで培われた反射神経の為せるワザだろうか。ざわめく心臓を抑え、少しだけ彼女に近付いて耳打ちしようとしたら、唇を尖らせたまま吐き出された言葉にがくりと力が抜けた。

「それ」
「それってなんや?」
「その眼鏡。伊達眼鏡だよね」
「そうやで」

すうっと目の前に伸びてきた白い指を反射的に捕まえそうになって、寸前で押し止める。

「忍足くんが伊達眼鏡かけてるのはなんでなのか、昨日の夜じゅう私必死こいて考えてみたんだけど」
「…………なんで」
「聞いてくれる?」
「………」
「忍足くんには聞く義務がある!」

責任とって言うんはそういう意味かと半分がっかりした。でもそない可愛い顔で首傾げられたら嫌やとか言える訳ないやん。

「何やねん、言うてみ」

今さら俺の伊達眼鏡がどうしてん、別に深い意味なんてないで。と思いながら何気なく鼻にかかっている眼鏡を持ち上げる。レンズ越しに彼女とばっちり目が合って、直後に柔らかそうな頬がほんのり染まった。
なんやそれ。

「そういうの止めてよね」
「なに?」
「べ…別に何でもない!」
「言いかけたこと途中で止めんなっちゅうねん」
「だって」

眼鏡かけた俺の顔に照れてるんか。口ごもる姿がやけに可愛くてもっと虐めたなったけど、今日の所は取り敢えず勘弁しといたる。

「………まあええわ。で、俺の伊達眼鏡の理由がなんやて」

夜も眠られへんくらい考えてくれたんが俺のことやなくて俺の眼鏡ってところが、なんかこの無機物に嫉妬してまいそうな変な気分や。けど、それでも俺に関することには違いない訳やし。普通に考えれば喜んでもええことなんやろなァ。
せや、喜ぶべきやで。と自分に言い聞かせていたら予想の斜め上を行くような言葉が聞こえた。


「忍足流 エロスの演出」


「は?」
「それはエロスの演出だと思うんです」

眠らんと一晩中考えた末に出て来た答えがそれ?ってまずはツッコミ入れさせてくれへんかな。エロスて何やエロスて。俺は歩くエロス拡散機か。

「何やそれ」
「いまからその理論説明するから」
「理論て大袈裟やなァ」
「黙って取り敢えずは聞いて」

急に真面目な顔になった彼女をそっと見つめる。こない真剣な顔して、いかにも純真そうな素振りで、話してる内容はエロスやなんてどんなミスマッチや。まさかこんな話してるなんて周りの誰もが予想外だろう。ギャップに弱い俺としては大歓迎なんやけど。

「声小さめにな」

誰かに聞かれたらどないすんねん。耳元で囁けば「わかった」と頷く彼女の声が微かに震えた。

「ほな、どうぞ」

何かを反芻するようにすうっと難しい表情になった彼女が、一旦息を吸い込んで止める。静止画のようなその顔に浮かぶ陰影がきれいだ。


「裸眼にレンズ一枚プラスされると、途端に素の瞳が見えなくなるじゃない」
「まあ、せやな」
「見えなくなると気になるのが人情ってもので」
「それも分かる」

目の前の彼女は頭の中で打ち立てた理論をぼやけないうちに正しく伝えようと必死らしい。俺の相槌よりも早く、次の言葉が溢れ出す。

「隠れたものを見たくなる」
「レンズすけすけやから、めっさ見えとるけどなぁ」
「隠されると気になる」
「………」

いや、だから見えとるって。
俺の言葉は完全にスルーしているくせに俺の存在はたしかに認識しながら、視線が瞳のすぐ上を素通りする。その感じが妙に擽ったい。

「隠されたものには、ついつい妄想力が働く」
「それは人によるんとちゃうか?」
「隠してるくせにちらちら見える。というか見せる」

さっきからまるで棒読みの口調で展開される理論は、彼女が切羽詰まっている証拠だと思う。そういう所まで愛おしくて仕方ない。

だから見えとる言うてるやん、隠してへんし。別にちら見せもしてへんし。心の中で呟きながら隣の女を盗み見る。
教室の右側いっぱいに広がったガラス面から差し込む光が、彼女の髪を野蛮に照らす。眩しい。

「不自然に隠す行為で、何かが引きずり出される」
「………なにかて」

問い返す言葉を無視したまま、彼女が無造作に髪を掻きあげる。やわらかそうなブラウンの隙間から白い首筋が覗いた。
何かが引きずり出されたというのなら、それが何かを知りたい。一番俺が知りたいのはそこだ。一瞬見えたうなじに心臓がぐしゃりと潰れそうで、氾濫する瞳をレンズでぼかす。

「チラリズムはエロスの必要要件だと思うんだよね」
「……ほんま、やなァ」
「でしょ!?」

“伊達眼鏡=忍足流エロスの演出”かどうかはともかくとして、チラリズムとエロスの因果関係はたったいま目の前で思い知らされた。ちらりと見えた肌に腹の底がちくちくしている。急かすように心臓が鼓動を早める。余り太陽に晒されていない色素の薄い肌が、俺の奥から何かを引きずり出す。

「で?」
「つまり、忍足くんの人工的チラリズムに躍らされてる」

躍らされている、というなら俺の方。

「……誰がやねん」
「勿論わた……し、っ!」
「へえー…」
「じゃなくて、世間の皆」

人工的チラリズムとかエロスとか隠すとか見せるとかもうどうでもええよ。それって所謂、脈がある言うことやんな。自分に言い聞かせて、そっと掠れた息を漏らす。

「聞こえへんなァ」
「い、一般論だからね!?」
「そんなん一晩中考えとったん?」
「………」
「そんな顔色悪ぅなるまで?」
「う……」
「まあええわ」

冴えない教授の声を無視したまま彼女の手を取ると、そっと教室を抜け出した。


万有引力。
ほんなら、責任とらしてもらおか。
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2011.01.17
学校近くの一人暮らしの部屋とかに連れてけばいいよ。
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