ガラス越しの
叶うわけがないと分かっていて、それでも願ってしまいたくなることってありませんか。ガラス越しの どんよりと濁った空から落ちる雨粒が地面の色を変えてゆく。立ちのぼるほのかな土の香もあっという間に湿っぽい空気で覆われてしまう。秋の余韻は、もう、どこにもない。
校舎の入口には、立ち尽くしたままじっとどこか一点を見つめている彼女の後ろ姿。傘を持っていないから外に踏みだせないのかと思えば、それだけではない空気も漂わせている。
なにしとんねんアイツ。
たっぷり3分30秒ほど華奢な立ち姿を観察したのち、忍足はそっと背後から彼女に近づいた。
「うわ、雨降ってきたな」
「そんなの見れば分かるし」
冬の雨はつめたい。でも目の前にいるこの可愛い顔の女はもっとつめたい。難しい顔して空を見つめたまま、まだ固まっとる。
「なんやねんその素っ気ない言い草、可愛ないで?」
「うるさい。私いま大事なこと考えてるんだから邪魔しないで」
そら確かに俺いまどうでもええようなことわざわざ口に出したしべつに必要ない台詞やった自覚もあるけど。邪魔て。ひどいわ。
でもそれくらい大事なことを考えてたていうからにはよっぽどのことや思たんや。ほんで、そっと身を屈めて顔を覗き込んでみた。話の先を促すように。
「ん?」
薄いガラス越しに彼女の顔が一瞬だけほんのりと染まる。降り込んだ雨が一滴、ガラスの縁を濡らした。
「ち、ちかい」
「もっと近づいたことなんぼでもあるやろ?何を今更照れ、
「からかうな!」
「…堪忍」
えらく威勢よかったのにすうっとそれがおさまって、小さな顔が俯く。喉の奥でくすくす笑いながらポンポンと頭を撫でたら、深呼吸するようにふかく息が吸い込まれた。
「あのね」
「ああ」
「宇宙は膨張し続けてるの。何十億年もまえからずっと、一分一秒も休まずに膨張し続けてるんだよ」
「知っとる」
知っとるけどやなあ、何でいまそんなこと考えとんねん。何で宇宙?それがお前のいう大事なことなん?
「膨らんで膨らんで膨らんで破裂したらそれでおしまいなんだよ。なにもかもおしまい」
「………」
「だから私もうなにもしたくないの。なんにも。傘ももちたくもないし、だからと言って雨に濡れたくもないし、外はこの通りの雨だし」
「なんやその我が儘」
「もし忍足くんがかわいい彼女の濡れる姿は見ていられないと少しでも思うのならさっさと私にその傘さしかけてよね」
「……はいはい」
まあ最初からそのつもりやったけどなあ。彼女はいったいいつからこんなに高飛車になったんやろか。
はあ、と小さくため息を吐き出して開いた傘のなかで肩を抱く。
「ほな帰ろか」
「でも。でも、ね」
「ん?」
「一つだけ」
「なんや」
「一つ………」
何か重大な決意でも口にするみたいな真面目な表情で口ごもる。照れ隠しなのかなんなのか、背けたままの髪の隙間から覗く耳がほんのり赤い。
「……」
「……」
「………」
「………やっぱりいい」
は?なんやねんそれ。言いかけて途中でやめるとかほんまやめて。焦らすんもええ加減にせえよ。と、口を開きかけたら、そっぽ向いたむこうから小さな声が聞こえた。空気の合間を縫ってやっと届くくらいのちいさな声。
「アイデンティティ」
「……え」
「アイデンティティになりたい」
「なんの」
「忍足くんの」
宇宙の話から俺のアイデンティティてどんな飛躍や、彼女の頭んなかはどないなっとるん。なんやねんな、どういうことか全然分からん。
ちょっとだけ待ってや、いま自分の中で整理してみるから。
彼女は宇宙が膨張しつづけてんのが気になって気になって仕方なくて、爆発したら終わりやからもう何もしたくなくなってた。せやけど一つ。一つだけしたいことがあるとしたら「俺のアイデンティティになりたい」ってそういうことか。
ところでアイデンティティてなんやねん。アイデンティティて「自分が自分であるということ」っちゅう意味やと思てたけどちゃうんか。俺の思てるアイデンティティと彼女のそれは別物いうことか。
そもそも俺が俺であることてなんや。忍足侑士のアイデンティティて。やっぱり全然わからへんわ。
「どういうことや。30文字以内で分かりやすく説明し、
「メガネ」
「………3文字か!」
「忍足くんの伊達眼鏡」
みじかくまとめてくれたのは良いが、結局のところ、さっぱり要領を得ないまま。
「俺のメガネがどないしたん」
「忍足くんのいつもかけてる伊達眼鏡。私、それになりたい。宇宙が膨張して膨らんで膨らんで破裂してしまう前に眼鏡になりたい」
「そんな無機物になってどうすんねん」
「だってただのレンズでしょ、それ」
「せや」
ただのレンズやからこそ、そんなモンになりたい言うんが訳分からへんのや。首を傾げて息をはきだせば、冷えていく町並みにほんのりと白が溶ける。
「伊達だから着けてることで忍足くんに何らかの有意義な機能を付加するわけでもなんでもない。得にもならない。役にもたたない。でしょ?」
「せやな」
「なのに。なのに、だよ。機能的意味もないのに忍足くんに選ばれて朝から晩まで四六時中一緒にいることが許されて、傍にあるのが当たり前の存在になってる。その、ただのガラス板になりたい私。忍足くんのアイデンティティになりたい。私を通して世界を見てほしい。世界と一緒に私をみてよ。いつも、いつも」
一気にまくし立てる肩を掴んで、じっと瞳を覗き込む。ガラスのむこうでまた、彼女の頬が色づく。まあるい眼がかすかに揺れている。
「いやや」
「なんで」
「なんでて、当たり前やろ」
なにを必死で考えているのかと思えば彼女はいつもこんな具合だ。不意打ちで俺の心を掻っ攫ってゆく。
容易く。事もなげに。意図すらしないまま。
だから、たまには俺にも仕返しさせてや。
「なん…で、」
「そんなん決まっとる」
「え」
ふわっと、ガラス越しに視線を合わせたまま数秒間見つめ合う。少しずつ神経が波打って、血液が身体のなかをぐるぐると駆け巡る感覚。宇宙の膨張よりもっと、リアルなこの感覚を感じているのはたぶん俺だけやないはず。
傘の下は別世界。ごまかすようにふたたび動きだしそうなくちびるを、塞ぐ方法は一つだけ。一つ、だけ。
ガラス越しの(こんなんもできひんなるしな)- - - - - - - - - - -
2011.12.08
でもね。ゆーしくんは眼鏡いっぱい持ってるんですよね。