嘯くくちびる
ファーストインプレッションは胡散臭い男。それからずっと、なんて読めない奴なんだろうと思っていた。忍足侑士のことだ。
ポーカーフェイスの裏側で彼がいつも何を考えているのか、全然わからない。「無心」だかなんだか知らないけど、そんな技を使うのはコートの中だけにしてくれればいいのに。曖昧な笑顔とあのやたら腰に響く声で四六時中ごまかされている気がする。
「ほんと、忍足ってずるいよね」
そう思わない?って問えば、跡部からはものっすごく深いため息がとんできた。やっぱりね。
「わざわざそんな事を言うためにここへ来たのかよ」
「違うけど」
跡部の呆れ声はデフォルト仕様。なにかと言えば私は彼に纏わり付いているのだが、経緯や理由は話せば長いので省略する。ほかの女子たちはどうだか知らないけれど、私には彼に対する恋愛感情はない。恋とか愛とかいう次元を超越したところに彼はいる。なんと言うか、別の世界の生き物なのです彼は。だからこそ、彼のそばにいるとラクなのですよ分かりますか。分かりませんか。絶滅危惧種の珍獣を見守る観察者のようなやさしい気持ちになるというか、まあいいや。
編んだ髪を一旦ほどいて、ぶるぶると首を振る。三つ編みのあとがやわらかく波打っている。「鏡貸して」と言ったら、予想どおり舌打ちが返ってきたけど、ちゃんと一緒に鏡も手渡してくれる跡部はやっぱりやさしい。
「生徒会室を自分の部屋みたいに使ってんじゃねえよ」
「跡部くん冷たいし」
「あーん?」
「私と君の仲じゃない」
「どんな仲だ」
「忍足をいじめ隊」
「………」
沈黙を気にせずに、ふたたび髪を編みなおす。
「あのスカした顔が歪むとこ、見たくなるじゃない」
「それは否定しねぇが」
編み直した髪を、くるくるとまとめあげる。樺地くんの煎れてくれた美味しい紅茶を飲みながら「でも、読めないんだよなあ」と呟いたら、ため息がでた。
「俺様には手にとるように読めるぜ」
「そうなの?」
得意げにほほ笑む跡部がちょっと憎たらしくて、泣きボクロの上の綺麗な目を睨みつける。
「お前、気づいてるか」
「なに」
「読めない、って言葉の意味だよ」
「当たり前でしょ」
「なら良いんだが」
「なにその意味深オーラ」
もう一度ぐっ、と力を込めて睨んだら、聞き分けのない子供を扱うみたいに髪をくしゃくしゃと乱された。いまきれいに編み直したところなのに、跡部のバカ。
「読めない=読みたい、ってことだ」
「え?え?」
「なんだよ、やっぱ全然分かってねぇんじゃねーか。テメェの頭は飾りか」
困惑顔の私にむかって、跡部の盛大なため息がとんでくる。今日一番の大きなため息。
「つまり、どういうこと?」
「お前が忍足のことを読めずに苛々すんのは…」
勿体振って言葉を溜めるから、ごくり、唾を飲む。跡部はいったい何を言おうとしてるの。
「忍足のことを読みてえ。忍足を知りてえ、って思ってるからだ」
「え……えぇえええ!?」
「有り体に言うなら、忍足侑士に興味津々です、っつうことだろ」
「いや、それは!あくまでも虐めたいからであって!別に、私は、そんな」
「………」
「全然、す、好きとかじゃ」
「あーん?」
「好きとかじゃないんだから!」
「俺は何もそういうことは言っちゃいねえがな」
「あ……」
目の前で跡部の端正な顔が絵に描いたようにきれいに歪む。こんにゃろー、嵌めやがったな。なんて今ごろ思ってももう遅い。
――読めなくて腹が立つのは、そもそも読みたいと思っているから――
そんなの、正論すぎて全く反論できないじゃないか。なんで跡部は私自身が気付いてないことにまで気づくの?日常生活でインサイト発動するのやめてください。もう、やだ。やだ。
「教えてやってもいーぜ」
「何を」
「忍足の弱えものを、な」
「ホントに!?」
「ああ、」
とか何とか言われて、あのあと何故か私は跡部に託されたものを手に忍足の家へ向かっている。てくてくと、夕暮れの街を。
託されたもの、数学だか物理だかの課題とミーティングの議事録とその他諸々。プラス忍足邸の鍵。
「なんで跡部くんがそんなもの持ってるの」と聞けば「俺とあいつの仲をそんなに勘繰ってんじゃねえよ」と跡部は笑った。なんか怖い。
結局のところ、体調不良で昨日から欠席中の忍足のもとへお使いに行かされている様相だよね、これ。「ついでに髪はおろして行け」と命令されるままに髪をほどいた。どうせくしゃくしゃだったから良いけど、意味わかんない。なんだかんだで上手いこと跡部に言いくるめられてお使いさせられてるだけの気がする。パシリか。ああ。分かりやすく操られる自分が厭だ。ホントやだ。
ピンポーン。ピンポンピンポンピンポーン。何度鳴らしてもインターホンからは応答がない。出来ればあんまり使いたくなかったけど、と思いつつ預かった鍵を差し込む。こっそり忍び込む不法侵入者みたいで、金属同士の擦れる音にドキドキした。
お邪魔します。
呟いて足を踏み入れた部屋は、ほんのり忍足の匂いがする。きれいに片付いた、ものの少ない部屋。部屋までポーカーフェイス気取りなのか、と思ったらまたちょっと苛々した。
だいたい忍足の弱み、とか言いつつ跡部なんも具体的に教えてくれなかったし。「行けば分かるから黙ってそうすりゃいいんだよ」ってなんなの。ほんとなんなのあの俺様。絶滅危惧種の珍獣のくせに。
「忍足…入るよー」
小さく声をかけて寝室らしき部屋を覗いたら、苦しそうな忍足が眉間にシワをよせてうめいていた。テニスをしてても滅多に汗なんてかかず涼しい顔をしているくせに、脂汗のにじむ額。もしかしてアレですか跡部くん、「忍足の弱いもの=病気」とかいうベタな答えなんですか。だったらさすがに温厚な私も怒るぞ。
持っていたハンカチでにじむ汗をぬぐえば、眼を瞑ったままの忍足がもごもごとくちびるを動かす。
「おおきに…跡部」
「…じゃないよ」
熱に浮かされた声が、いつもにまして腰に響くからむかつく。というか、こんな時にすんなり出てくるのが跡部の名前って、どうなの。二人の関係疑うわマジで。まさか、「忍足の弱いもの=実は俺様だ!」なんてさらにベタベタな答えが浮かんで来たんですけどまさか、まさか。
それはそれで、あるいみかなり美味しい。かもしれない。美しい男二人が仲良く睦みあうシーン、絵になりすぎるよ 観察したい。って、私 いったいなに考えてるんだ。
そのとき、煩悩に釘を刺すようにちいさなうめき声が聞こえて。そっと忍足の額に触れてみたら、びっくりするくらい熱かった。
そこからは、病人看病の定番コース。バスルームから勝手に拝借した洗面器に氷水をみたして寝室へ戻る。冷えたタオルを額にのっけると、ベッド脇に陣取った。
「気持ちええわ…」
言いながら口角をあげた忍足は、またすぐに寝息をたてはじめる。子供みたいに無邪気な顔は、一昨日よりやつれていた。
少しこけた頬をなぞって、洗面器のベストポジションをさがしていたらサイドテーブルの丸眼鏡の隣にとんでもないものをみつけた。みつけてしまった。
見間違いじゃないかと、ついつい二度見した。けど、これ……
――なんで、私、いるの。
趣味のいいフォトフレームにおさまった、斜め45度の私の横顔。いつの間にこんな写真をとられていたんだろう。忍足はなんでこんなものをやたらアナログな方法で大事そうに飾っているんだろう。なんで。どうして。
もしかして。
忍足の弱いものって。
「嘘、でしょ…」
困惑の真っ只中で9割くらい途方にくれていたら、鞄のなかで携帯がなった。
『忍足の弱えもん、そろそろ分かった頃じゃねーかと思ってメールしてみてやったぜ。まだグズグズしてんなら、答えはベッドサイドのテーブルの上だ。俺様の優しさに酔いな!』
跡部ぜったい面白がってる。このメール送信のタイミングのよさ、どっかで見てんじゃないの。というか跡部がなんで忍足の寝室の調度品まで熟知してんの、ホント怖いし。
『嘘でしょ、これなに』
『現実を否定すんじゃねーよ』
『うるさいバカ跡部』
『素直じゃねーな、テメェも』
何度めかのメール着信音で、ごそごそと布団がうごく。衣擦れの音とともに忍足がゆっくり目をあける。ばちっ、裸眼の瞳と目が合った。
「ごめん、起こした?」
「…なんで自分おるん」
「跡部に頼まれて」
半身を起こした忍足に跡部からの預かりものたちをそっと手渡す。紙の束と私を交互にみつめたあと、彼が半分虚ろな目のまま私の髪に手をのばす。
「髪おろしてんの、よう似合てるな」
「は…!?」
「一遍見たいと思ててん」
くるくると私の髪を指で絡めとりながら(ええ夢やな…覚めたないわ)と呟く忍足が、はっとするほどやさしい顔になる。
「忍足…夢じゃないこれ」
「え?」
「夢、じゃ、ない」
髪をもてあそびつづけている指を無理やり剥がしたら、そのまんま彼はその指で自分の頬を抓る。まだ、夢と現の狭間を漂っているのだろうか。
たっぷり数十秒の沈黙のあと、フォトフレームにちらっと視線を流した忍足がぽつりと言った。
「………見てもうた?」
「見えた」
「理由は」
「なんとなく」
「忘れて」
搾り出すように苦しげな声でそう言って、ベッドにばたり、倒れ込む。スプリングが軋むのと一緒に、忍足の眉間が切なげに歪む。私の胸もきゅ、と軋んだ。
「なんでおんねん」
片腕で目を覆ったまま、すごく不機嫌そうな声が飛んでくる。こんな忍足の声、きいたことない。こんな感情を剥き出しにした声。
「…跡部に鍵借りて」
「そういうこと言うてんちゃう」
「ですよね…」
(跡部のアホ。あいつ何してくれてんねん)
呟いて、ちいさな舌打ち。冷静沈着な忍足にしては珍しい。
「…堪忍な」
「なにが?」
「パジャマやし」
「そんなこと?」
「髪型も全然決まってへんし」
「そうだね」
「眼鏡かけてへんし」
「まあ、寝てたら当然でしょ」
そこまで眼鏡にこだわるか忍足。
「声がらがらやし」
「うん」
「ほんま格好悪いとこ見られてもうたわ、最悪や」
「そうだね」
「や、そこは否定してえな」
「ごめんごめん、根が素直なもので」
「自分で言いなや」
つんと突かれたおでこが熱いのはきっと忍足に熱があるせいだ。頬っぺたが熱いのも、忍足の熱にあてられたせい。忍足の顔が赤いのも、目がいつもよりずっとやわらかく潤んでいるのも熱のせい。
ぜんぶ、熱のせい。
「こない恥ずかしい姿見られたら責任とってもらわなあかんなあ」
「……やだ」
「即答すんなや」
「根が、素直なもので」
「傷つくやん」
「ごめん」
「謝らんといて」
「ごめん」
「謝んな」
「………」
布団のなかから伸びてきた腕に有無をいわさず引き寄せられる。熱い。引き込まれた布団のなかは忍足の匂いがした。
「あー、熱のせいか自分が何してるんや分からへんわ」
「嘘つき…!」
「嘘ついてんのはどっちやろなあ」
「………」
間近で見た忍足は、さっきの一瞬の動揺が嘘みたいにすっかり余裕を取り戻している。しっかりと腰に回った腕はびくともしないから、余計に藻掻きたくなる。
「そない暴れなや」
「暴れるよ、バカ!変態!」
「かわいいなぁ」
「忍足はキモい」
でも、でもね。
はじめてみた忍足のまばらな無精髭としんどそうな鼻声に、ホントは死ぬほどときめいてる。なんて、悔しいから絶対言ってあげない。
嘯くくちびるたいがいで嘘つくん止めてえや。