で?
自分から呼び出しといて返事がないってどういうことなのあの万年天パ教師ふざけんな。文句をいいかけた私が、いかにも銀八らしいと思い直して諦めたのは3回目のノックのあと。
扉に手をかけたら、鍵は最初から開いていた。
「お邪魔しまーす」
返事の代わりに聞こえたのはやすらかな寝息。眼鏡をかけたまま器用に椅子のうえで寝ている銀八の姿は、まるで少年みたいだった。
「先生…?」
すぐそばで声をかけても、起きる気配はまったくない。ちいさくひらいた口から、もれる息がふわふわと前髪をゆらしている。無防備で、かわいい顔。
それにしても、なにかにつけて先生が頼み事に私を指名するのはなぜだろう。宿題集めて持って来いとか、授業で使う資料とりにこいとか。クラスにはほかに何十人も生徒がいるのに。
「なんでいつも、私?」
答えの返ってこない問いをして、ため息をつく。比較的ほかの生徒よりマトモだから、単純にそれだけの理由なのだろう。でも、その裏にもっと別の意図があればいいのに、と思う。ずっとそう思っていた。
「厭じゃないけどね」
本当はむしろ嬉しい。「助かったわ」と笑顔の先生に頭を撫でられるのがうれしい。はやく気づいてくれればいいのになあ、私に。
銀髪にそっと触れ、やわらかいそれを何度かなでる。じんわりあたたかさの伝わる指先が、ばかみたいに震えた。
「ぎん、ぱち…」
はじめて名前をよんでみた。自分で呼んだくせに恥ずかしくなって、両手で口をふさぐ。心のなかではいつもこっそりそう呼んでいたのに、声にすると、こうもひどく胸がしめつけられるものだとは思わなかった。
聞こえていたらどうしよう、と焦ったけれど大きな背中は微動だにしない。相変わらず銀色の前髪は、寝息にふわふわと泳いでいる。
「…銀八」
もう一度、呼んでみた。また胸が痛んだ。さっぱり反応はない。
だから、チャンスだと思った。先生の寝顔を見れる機会なんてもう二度ないかもしれない。こんなシャッターチャンス、逃せない。ポケットから携帯をとりだして、こっそり写真をとる。
後で待受にしてやるんだから。呼び出しといて私を放置した罰だよ、先生。
シャッター音でも目を覚まさないなんて、よほどぐっすり寝入っているらしい。そう思ったらつい調子にのった。
ここからは私の独擅場。
脱ぎ捨てられたよれよれの白衣を手にとって匂いを吸い込んでみる。銀八の匂いがした。
どきどきしながら袖を通した白衣は、思っていたより袖口がながい。大好きな匂いにつつまれて、抱きしめられるってこんな感じかなと思った。
眼鏡を慎重にはずして、素顔を観察する。いつもはフレームにふちどられているのに、ガラス一枚なくなっただけで先生との距離が近づいた気がした。睫毛、ながい。きれい。
それから先生の眼鏡をかけて、鏡に映った自分を写真にとる。ちょっと調子にのりすぎかな、と思ったけどもう止まらなかった。あと少しだけ。あとは、先生の眼鏡はずした寝顔を写真に納めたら、やめる。もうやめるから。
そう呟いて振り返ったら、
目が、合った。
「おはようさん」
初めての、先生の裸眼の目。
死んだ魚の目じゃない先生の目。
「お、起き……たの?」
心臓が一瞬止まった。
「起きてた」
「い、いい、いいいつから」
「お邪魔しまーす、あたり」
それ、最初じゃん。じゃあ、はじめから起きてたの?狸寝入りだったの?声なんて全然でなくて、水槽のなかの鯉みたいに口をぱくぱくさせる。
デスクに片肘をついた銀八が、私をじっと見つめたまま楽しそうにくちびるの端を持ち上げた。
「誰かさんが俺の名前を何度も呼ぶもんで寝てられなくて、な」
2回だけだもん、何度もじゃない。あんなに心臓にわるいこと何度もなんて出来ないし!意味のない反論すら言葉にならない。
「で?お嬢さんはいったい何をしてらっしゃるんですかァ」
とっさに何も思いつかなくて、長すぎて垂れた白衣の袖口を前につきだしてみる。
「なにそれ」
「お化け…の真似、」
「ちがうだろ」
さすがにそんなんじゃごまかされてくれるワケないよね。知ってた。
「坂田先生のコスプレ、とか」
「ああ、あの有名な抱かれたい教師No.1のイケメンな。知ってる知ってる!カッコイイよなあアイツ。俺もちょー憧れるわ、だからちょっとその白衣と眼鏡貸して俺にもコスプレさせ……って、おい!せっかく俺がボケてんのにツッコミなしですかァ?ボケ台無しなんですけど。銀さんツッコミ待ちすぎてくたびれたんですけどォ。待ちきれなくて自分でツッコミ入れちまったじゃねぇか」
ったく、セルフツッコミは柄じゃねーってのに。いやこの場合はノリツッコミっつうのか?などとぶつぶつ呟き続けている先生を呆然とみつめる。
「………ごめん、なさい」
消えそうな声しか出ない。
正直いまの私、ツッコミどころじゃなくて、それ以前にぜんぜん余裕なくて、どうやったらこの状況に上手い理由をつけられるんだろうってそっちに脳細胞全力で総動員してたから、銀八の言ってることなんてほとんど聞こえてなかった。
「おい」
「……」
だって、最初から起きてたってことは全部気づいてたってことで。私のしてることに気づいててそれでも黙って好きなようにさせてたってことで。それは、なんで?からかうためですか先生。
「おーい」
銀八の大きなてのひらが私の顔の前でひらひらと揺れている。それが見えてるのに、動けない。このまま固まりたい。私は貝になりたい。
「お前、起きてる?」
「………」
無言で頭をふる。左右に、思いっきり。そんなことをしても現実を否定できはしないって分かってるけど、夢ならいいのに。さっきまで自分のしてたこと全部夢なら、いい。
夢なら。
そう、夢だよこれは。悪夢。私いま寝てるんだよきっと。そうにちがいない。そういうことにしてください、神様。
夢だ、から。と呪文みたいに何度も唱えていたら、立ち上がった先生に腕を引かれた。
「ったく、しゃーねぇな」
先生は面倒臭そうに呟きながら、私のかけていた眼鏡を外す。なにしてるんだろうこの人、何が仕方ないんだろう、と上目遣いで見上げた瞬間、くちびるにそっと何かが触れた。
あったかくてやわらかい、何か。
「な!」
「ん?」
目ェ覚めたか?なんて白々しく問い掛けると、先生は頭を撫でる。大きなてのひらが、やさしい。
じゃなくて!
「なにいまの」
「キス」
「なんで」
「起こしてやろうと思って」
おはようさん。銀八がそう言って笑うから、裸の瞳が愛おしげに見下ろしているから、私は、私は、私は、
「まだ足りねぇか」
「た、た…」
足りる。足ります。充分足りましたから。もうすっかり目もさめたから。だからお願いします放してください。本当に抱きしめられるのってこういう感じなんだね。おかげで私の心臓は、もう壊れる寸前です。
「わりィ。足りねぇの 俺だわ」
無言の願いもむなしく腕のなかにしっかりとじこめられたまま、二度目のくちびるを受け止めた。
ああ神様、
これはやっぱり夢ですか。
で?頼み事にいつも指名する理由、分かってくれましたかお嬢さん。