夜空に溶けた誰かの孤独
息が白い。万事屋まではあと10分。
後ろから近付いてくる変な男の気配を感じながら、少しだけ足を早める。
何もこんなに寒い時期に出て来なくても良いのに。
顔を隠す笠を目深に被り、明らかに挙動不審な男は、いわゆる変質者というやつに違いない。
きっと今頃うっすらと気持ちの悪い笑みを浮かべているんだろう。
これまでに幾度となく遭遇したヤツらと同じ雰囲気を、そこはかとなく漂わせている。
自分でもすごく不思議だけれど、何故か私は昔からその類の人種によく遭遇する定めらしい。
銀さんに言わせれば、それは私に隙があるからだということになるのだけれど、寧ろ、私はその辺りの女性に比べると、ぴりぴりと気を張り詰めている方なのではないかと思う。
でもまあ、この手の自己判断・自己分析・自己認識というものが、この世でどれだけアテにならないものか、ということも勿論知っている。
とにかく今は眼前の(正確には背後の)変質者をどうやってやり過ごすのかが肝心だ。
ここで振り向いて、一蹴してやるのも良いが、どんな相手だか分からない。
万が一捕まって、変な所に連れて行かれないとも限らない。
そうなったとしてもやり過ごす術はいくらでもあるが、何が厭だって、銀さんに会える時間が短くなってしまうのが一番厭だ。
私たちには未来しか時間など残されていないのだ。
ここで足止めを喰らうことは、その貴重な未来の時間を確実に浪費することに繋がる。
そうやって私が考えている間にも、ひたひたと続く足音は確実に距離を縮めている。
さて、どうしよう。
走り出した所で、女と男の足だ、きっと追いつかれてしまうだろう。
それに元来私は走るのが大の苦手だ(銀さんにも笑われてしまう程の鈍足だが、ふたりの付き合いにおいて、たいした障害にはならないので気にしたことはなかった)。
加えて言うなら、生き物と言うのは何故か、逃げるものを追いかけてしまいたくなるという変な習性を持っている。
このペースを保って歩き続ける方が得策だ、と思った。
ああ、あと数分なのに。
こんなことなら銀さんの"迎えに行こうか?"との申し出を断らなければ良かった。
寒い中、わざわざ出て来て貰うのが申し訳なかったという理由以上に、余りにも珍しい事なので驚いて反射的に断ってしまったというのが本当のところ。
まあ、そんな事はいまはどうでもいい(というか、今更どうにもならない)。
ざり、砂を踏む音が徐々に近づいてくるのに合わせて、心の中では妙な不協和音が起こっている。
怖いというよりも、ただひたすらに面倒臭い。
だいたい何で、私はこんな深夜に家を飛び出したんだろう?
いやいや、それは一時でも早く銀さんと一緒に過ごしたかったからで、"朝まで待てば良かったのに"なんて選択肢は、最初から私の中になかった。
そもそもこんな変な男さえ現れなければ、今頃私は"もうすぐ銀さんに会える"という浮ついた気持ちを楽しみながら、ほわほわと月夜の薄闇を謳歌していたはずなのに。
お前が悪い、諸悪の根源は私の後ろに居る男、お前だ。
なんだか急に腹が立ってきた。恋人に会える前のドキドキする昂揚感をすっかりないがしろにされてしまっているじゃないか。
それは未来の時間を奪われること以上に、腹立たしい事だと思えて。つい、振り向いて悪態を吐いてしまいそうな気持ちを、袖の中ぎゅっと拳を握り締める事で耐えた。
あれからもう半分以上の距離を進んでいる。万事屋まではあと数百歩。
ここからなら走り出しても追い付かれずに逃げきれるだろうか?いや、自分の足ではそれもきっとままならない。
もう少し、もう少しだけ進んだら、一気にダッシュしてやろう。
ひとりでこくこく、と軽く数度頷いて先を急ぐ。
と、ふっ…小さな笑い声が真後ろで聞こえた。
いつの間に男はそんなに傍まで近寄っていたのだろう、気付いた時にはその両腕に捉えられ、後ろから羽交い絞めにされていて。
あ…終わった。
叫び声を上げることも考えたけれど、ここは余りに万事屋に近過ぎる。
"銀さんの彼女は近所迷惑も考えないとんでもない女だ"なんて噂が立ったりしたら、彼に迷惑をかけてしまうかもしれない。
曲げた肘で後ろの男に思いっきり肘突きを喰らわすと、案の定男は小さな呻き声をあげて一瞬腕の力を緩めた。
駆けだすなら今だ…え?
ちょっと待って。
今の声、どこかで聞いたような。どこだったかな。それに、あのほわりと漂った匂いは明らかに記憶にしっかりと刻まれたそれだ。多分、間違い…ない。
もしかして。
恐る恐る振り返る。よく見知った男は、苦しげに腹部を押さえ(鳩尾にクリーンヒットした模様)、背中を軽く曲げてそこに立っていた。
「……っ!!」
「いつつつつ、なまえ…急に何してくれてんのォ?」
「銀さん…ごめ」
「なんで逃げるんですかァ」
「変質者だと思ったんだもん」
「バッカ、迎えに来てやったのにそりゃないでしょう」
「じゃあ、何ですぐに声掛けてくれなかったの?」
すこし痛みの安らいだらしい彼が、ふたたび背中から私を抱き締める。
冷え切った掌を温かいぬくもりに包まれて、心がじんわりと蕩け始める。
「なまえが何か考え込んで、頭振ったり頷いたりしてんのが、可愛かったから」
「……へ?」
「で、何考えてたんですかァ?銀さんとこれからどうやって甘い時間を過ごそうかとか、そういうこと?」
にやにやと表情を崩しているのが丸分かりの声。
残念ながら、そんな甘ったるい妄想なんて、何にもできませんでした。
あれ?
ってことは、私から楽しい空想の時間を奪ったのは、空想の対象相手自身だったってこと?
なんだかそれって、理不尽な気がしないでもない。
「違う!」
すっかり調子に乗って、深夜の往来で遠慮もせず胸に伸びて来る手を、きゅっと抓りあげる。
「どうやって後ろの変質者から逃れようかって、そればっかり考えてた」
「ぶっ…」
「やっぱり、変質者だったけどね」
振り返ってすこし笑ったら、いきなり抱きあげられた。
銀さんは突然変なスイッチが入るから、気をつけなくちゃと思ってたのに、やっぱり私にはまだ把握し切れていないみたい。
「その笑顔、やっぱり最高なんですけどー」
「ちょっ、待って銀さん。ひとりで歩けるから」
夜空に溶けた誰かの孤独