さくらいろ

 必死に伸ばした腕は空を切り、温い指先同士が掠めるように触れた。

「銀ちゃん!」

 私より熱く、乾いた皮膚。接触したのはたった一瞬だけなのに、やけに鮮明に感覚を引きずる。

 ――落ちる。

 ふわ、と沈む身体。重力に逆らえずに落下する視界。周りを舞うちいさな桜の花弁はゆるやかに翻るのに、その倍以上の早さで地面が近づいている。
 落下速度の違いから考えれば、私って案外重たい。もう少しダイエットしておけば良かったかな。なんて、どうでもいいことが頭に浮かんだ。

 落ちていく私を見つめる彼の双眸は、いつになく彩度を増している。死んだ魚のような、という形容が似合わない瞳。
 銀ちゃんって、そんな顔も出来るんだ。意外。
 切羽詰まった状況には違いない(だって、きっとぐんぐん地面は近付いている)のに、銀ちゃんらしくない表情がなんだか可笑しくて、自然に頬がゆるむ。

「ばか、おまっ…何笑ってんだよ」
「…だって」
「もっと自分の状況を考えろ」

 そうだった。私はいま落ちている。何がどうなってこんな状況になったのかは、全く分からないのだけれど、身体の周りではめまぐるしく景色が移り変わっていく。
 ぐるぐる回るのと、上から下へ流れるのとの違いはあるけれど、走馬燈ってのはこんな風に映像が見えるものなのかもしれない。縁起でもないけれど。

「大丈夫か…って、んな訳ねえよな」
「ん……」

 冷静に自分の状況を見る余裕があるのは不思議だけれど、まるで自分以外の全てがスローモーションのようだ。
 それって、通常よりも早い回転で脳が思考を繰り返しているからなんだろうか。入ってくる情報をすごい処理速度で捌いてるから、周りがゆっくりに見える、とか。
 いつもこれくらい頭のキレが良ければ、もう少し人生ラクなのに。

「ちょ、待ってろ」

 待ってろなんて言って、どうするつもりだろう。会話している間にもふたりの距離は確実に広がっているのに。
 それに、落ちている状態のモノに"待て"と言われて、いったい何が出来る?また口先だけで調子のいい事を言うんだから、銀さんは。
 繰り返し私の名を叫ぶ声も表情も尖っていて、いつもはあんなに緩み切ってるくせにと思ったら尚更笑えた。


 たとえば私を失う時、銀ちゃんはそんなに切ない顔をしてくれるんだろうね。一寸先も見えない状況なのに、銀ちゃんの表情ひとつで幸せを感じているなんて、女心は複雑。


「銀ちゃん……」

 もう、随分離れてしまった距離。これではきっと、私の声なんて届かない。やわらかい風にふわふわの銀髪が揺れている。どんどん銀ちゃんは遠ざかる。
 舞い散る桜色の花弁と、陽を浴びた銀色。見たこともないほどに苦しげな表情の銀ちゃん。いま彼の頭の中にあるのは、一体なんなんだろう。

「おいっ!!手」
「………」
「…手ェ伸ばせって」

 もう、無理だよ。だって銀ちゃんは届かないほどに小さい。遠くで揺れる銀髪の毛先が、軽くうねっている。陽に透けてきらきらしている髪。逆光で影になった顔では、眉間の皺もくっきり。
 こんなに離れているのに、そんなものまで見えてしまうなんて何だかヘンだなあと、ちらと思ったけれど。目に映る銀ちゃんの全てが、どうしようもなく愛おしい。


 もうすぐ地面に叩き付けられて、二度とその髪にも顔にも触れられないのかも知れない。
 銀ちゃんのダルそうな顔も、見れなくなる。低くて甘い声も聞けなくなるんだ。そう思ったら、はじめて怖くなった。

「……銀ちゃんッ!」

 ありったけの声で叫んだのに、何故か声は全く出なくて。苦しさに藻掻くように、重力に引かれるおもたい手を持ち上げる。

「ちくしょー、何なんだよコレ」

 私の名前を呼び続けている銀ちゃんの声が、少しずつすこしずつ薄れていく。
 苦しげな銀ちゃんの顔、眉を顰めたそれは、セックスしている時の銀ちゃんみたいだ。
 さっきまで同じ顔を見て幸せだと思っていたのに、銀ちゃんと繋がることも、熱を帯びた声で名前を呼ばれることもなくなるなんて。そんなの、つらすぎる。

「銀ちゃん……」

 やっぱり声は出ない。代わりに精一杯手を伸ばす。
 届く訳がないのに、それでも伸ばさずにいられない。銀ちゃんが手を伸ばせと言うから。銀ちゃんも手を伸ばしているから。



「………い、おい…」

 不意に近くで聞こえた声。

「…ぎん、ちゃ?」

 瞼を辿る熱くてかさついた指先。恐る恐る瞼を持ち上げると、上からニヤニヤと破顔した銀ちゃんのドアップ。

「あ…れ……」

 銀ちゃんのかたい膝を枕にして、桜の木の下にふたり。瞼を拭った掌がわしゃわしゃと髪を撫でる。
 さっきまで、落下運動を続けていたはずの身体は、広げられた着流しの上でやわらかく地面に横たえられていて。見回した周囲は桜が満開。


「どんな夢見てたんですかァ?」

 百面相みたいだったんですけど。と言葉を続けて、くつくつと笑う銀ちゃんはもう、いつもの彼で。切羽詰ったさっきの顔が、残像のように脳裏で閃いては消えた。

 ――夢…か。

 舞い散る花弁に彩られた彼に、そっと見惚れる。薄桃色の世界に、靡く銀色。きれいだ。

「もしかして…エロい夢だろ?」
「違っ!」
「へぇ。でもさっき、すげえヤーラシイ顔してたんですけど」
 アレって何?

 あれは…、切なげに眉を顰めた銀ちゃんの顔がセックスしている時みたいで。でも、それは夢で。ってことはやっぱり、厭らしい夢を見ていたということになるんだろうか?

「落ちる夢、だよ」
「なるほどな」
「なるほど…って、なに」
「ん。恋の坩堝に落ちる…って、な」

 小さな相槌を漏らした銀ちゃんの顔が、いびつに歪む。

 それ、
 情事前のお得意の顔に似てる、と思っていたら、耳元に吐息交じりの声が忍び込んだ。



さっさと帰って夢の続きヤるか。

 お花見はいったん中断――
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