ラビリンス
戻れなくてもいいから、とじこめて。
ラビリンス 手遅れ。よく使う言葉だけれど、ステレオタイプな毎日のなかでは、わざわざそれと意識したりしない。
さんざん時間がすぎたあと、ふと我に返って気が付くのだ。とっくに手遅れだった、と。
そうなったときには、すでに色んなことをやり尽くしていて、後戻りなどできなくなっている。
に、と口角を持ち上げる男は、銀色の髪をしていた。きら、陽のひかりを浴びるやわらかそうな髪。きれい。
「道に迷っちゃったんだよねェ」
耳に心地よい低音。いまから思えばきっと、あの出会いのシーンからすでに手遅れだった。
戒厳令の江戸で、腰に木刀をぶら下げている男を、私はなんで信用したんだろう。和装と洋装を重ねるようなヘンな格好の男を、なんでもっと疑わなかったんだろう。
きれいだ、と思った。まさにあの瞬間、悪い夢が始まった。
ぽたり、ぽたり。
雫がおちてくる。私の上で揺れる男から。ぽたり。肌をぬらすその感触に、胸を絞られる。
汗まみれの男。眉をきゅっと顰めて、組み伏せた女の表情をうかがっている。その顔が愛おしくて、背中にそっと爪をたてる。
「銀ちゃん」
「ん…もっと、ってか」
いっそう深く粘膜を刔られて、声も出せずに首をふる。ちがう。もう、これ以上はむりだ。ちがう、やめて。でも、やめないで。
がつがつと穿たれて、自分がばらばらに壊れてしまう。ぽたり、ぽたり。落ちる汗が、なにかの毒液のように、私を溶かす。
心も身体もすっかり溶けてしまったら、私はどこに行くんだろう。この男のなかに、ぐちゃぐちゃになって混ざり合う。混ざって、とけて、消えてしまう。
「こわい」
ぽたり。また雫が私をぬらして、心臓がぎゅうっと締め付けられる。身体のなかの熱がひとつところに集まって。繋がっている部分が、あつくてたまらない。
「なにが?」
「わから ない」
「こわいくらいに気持ちイイって?」
そうかもしれない。気持ちよくて、気持ちよすぎて、自分がどこかに行ってしまいそうな気がする。もしも私がどこかに行ったら、銀ちゃんはそのあとどうするんだろう。
「バッカ、煽んな」
銀ちゃんが一瞬だけうごきをとめる。荒々しい口調とは反対の、やわらかい表情。しっとりぬれた掌が、そっと頬を撫でる。
なんで、そんな目。
いつもは死んだ魚のような目をしているくせに、なんで。愛おしくてたまらないものを見るような、優しいやさしい目。
「銀さんが必死で我慢してんのに、その努力ぶち壊す気ですかァ。この子は」
ぽたり、銀ちゃんの額に浮かんだ汗が、首筋をつたって私におちてくる。ぽたり、ぽたり。
胸の上で、雫がはじける。いっしょに私の心もはじける。こんなに汗をかいて、私を抱く男。
「我慢、しなくていいよ」
「……っ」
眉を顰めて、必死に耐えながら愛おしさをぶつける男。
差し込む月光に照らされて、きら、銀髪がひかる。乱れた髪の先から、また、ぽたり。
「いいよ。銀ちゃんとなら」
どうなっても、壊れても、怖くてもいい。ぜんぶ言い終わる前に、唇は塞がれる。貪るような深い口づけ、ほんとに食べられそう。酸素が足りなくて、頭がくらくらする。
「んなこと言って、どうなっても知らねえから なっ」
深く奥を突かれて、もっと頭がくらくらする。たぶんもうすぐ、私は意識を手放すだろう。銀ちゃんにぐちゃぐちゃに掻き交ぜられて、少しずつ音が遠くなる。
自分の漏らす声も、もう、あんまり聞こえない。突かれてゆれて知らない果てへと、引きずりあげられる。
もっと、もっと、上へ。
「……っく」
自分の声は遠いのに、銀ちゃんのこぼす呻きはやけに鮮明で。
ほどけていく意識のなかにすべりこんだその声を、世界でいちばん愛おしいと思った。
やっぱり
もう、手遅れ――
ラビリンス(逃がさないよと、貴方は笑った。)