影踏み

 ずっと、気づかないふりをしていただけなのだ。会話をし、身体を重ね、この男を知ったつもりでいたけれど、大事なことは、なにも知らなかった。過去も、強さも、弱さも。

「そろそろ寝るか」

 頷いてあたたかい布団にすべりこむ。男の腕はいつも通りにやさしく、器用な指先がさらり、前髪を掻きあげる。いまさら戻れないところまで来てしまった、と思った。手を離すには、抱えるものが多すぎる。失うには、あまりにやさしい手だった。
 だから、なにを壊したくないのかもわからぬまま、気づかないふりをする。慎重に、慎重に。
 表では、雨をともなって、強い風がふいていた。
 腕に頭を乗せ、くだらない世間話をして。おやすみと囁いてキスをして微笑んで。ここまでは、たぶん、上手くできたはず。

「なあ…お前さ」
「なに?」
「いや、なんでもねェ。おやすみ」

 たまには身体を重ねて、何事もなかったように眠る。
 そんな毎日のくり返しが、きっと、私にできるただひとつのこと。壊したくない、と思うなにかがあるのなら。
 風の音に混じって、銀さんの寝息が聞こえる。



 はじめの印象は、ただのお喋りな人。バイト先の甘味処に連日通ってくる、極度の甘党で銀髪で昼間から仕事もせずにふらふらしているオトコ。くだらないことばかりべらべらと喋る、ぐうたらでいい加減でどうしようもない、でも、きれいなオトコだった。

「なあ、なあ!付き合ってるやつとかいるの?いねえんなら銀さんみたいな男はどうですかァ?」
「いないけど、困ってませんから」

 書物といえばジャンプオンリー、真面目に働く姿を見たこともない。どうやって生計を立てているのか不思議になる。第一、食べ物も飲み物もいつも甘いものばかりで、この人はまともな食生活を送っているんだろうかと余計な心配をしてしまう。

「気ィ変わったら、いつでも銀さんは受け入れ体勢バッチリだから」
「考えておきます」
「こんなお買い得な男、歌舞伎町のどこ探したっていねぇよー」
「範囲狭っ!地球上、とか、せめて日本中とか言ってください」

 毎度囁かれる口説き文句は、最初からいやじゃなかった。
 追われるから逃げる、逃げるから追いかける。鬼ごっこみたいな単純な構図を、ふたりとも楽しんでいたのだと思う。

「俺と、まじめなお付き合いをしてください」

 だから、ある日いつになく真剣な表情で告白されたら、ぷっと吹き出しそうになった。
 なのに間髪いれずに頷いたのは、鬼に捕まる子のふりをしてあげたくなったから。
 子供みたいなこの男の誘いに乗ったふり。子供を庇護する大人のつもり。
 でも、ただ彼の奥にあるものに、私のなかのセンサーが反応しただけかもしれない。頭で考えるよりずっとはやく、肌はなにかを感じとるものだから。

「マジでか!?マジで付き合ってくれんのォォォ?」

 うん。もう一度頷けば、子供みたいに大袈裟に喜ぶ。そんな彼に、私も嬉しくなったのは事実。

 それからも銀さんの印象はあんまり変わらない。夜には獣のようにぎらつく目をすることがある、と知ったくらいだ。
 その目に晒されるのは好きなのに、決まってそんなとき、私は彼の目が見れなくなる。いつもふらふらしている彼が、必死でなにかに執着する顔はあんまりきれいで、本能を剥き出しにした人間は美しいと、はじめて感じた。
 知らない男に見える。
 その男の執着しているのが自分なのだと、確認するのが怖い気持ち。
 一瞬からんだ瞳をきつくとじて、焼き付いた残像を瞼の内側になんども思い浮かべる。
 ずっと見ているのは、ひどく心臓に悪い。ぎらつく瞳も咽喉仏も首筋を伝う汗も傷痕の残る胸板もゆれる銀髪も、見ればみるほど愛おしくて、見ればみるほど苦しくて、揃って私の呼吸を止めようとするから。
 でも、それだけ。
 夜にはすこしだけ顔を変える、どうしようもない男、だった。銀さんは、ずっと。
 さっきまでは、ずっと。



 寝返りを打った銀さんの腕に、ふわり、包まれる。

「なに、眠れねェの?」
「………」

 息を殺す。おやすみのキスを交わしてから、小半時はすぎている。身じろぎもせずにいたのに、彼はなぜ気づくんだろう。

「寝たフリしても、無駄」

 低く耳元で囁かれれば、無条件で肩がゆれた。

「ほら、やっぱり起きてんだろォ?」
 眠れねェんなら言えって、いくらでも付き合ってやっからさ。なんならくたくたになって起きてられないくらいに疲れさせるのもアリだよー、遠慮すんな。

「寝そう…だったのに」

 腕にぎゅうぎゅうと力がこもり、苦しいくらいに抱きしめられる。たぶん、銀さんはなにもかも分かっている。私の強がりも、悩んでいることも。

「さっきから、なに考えてるんですかァ」
「別に」
「あーあれか?銀さんが甘いもの摂りすぎて、ホントに糖尿病になったらどうしよう、とか」

 ふざけた口調とは裏腹の、ふるえる指先が顎を掬う。

「もしかして、私よりも甘いもののほうが好きなの?って食べ物に嫉妬しちゃったりしてるとか…大丈夫、銀さんがこの世でいちばん好きなのはお前だから」
「嫉妬してません」
「じゃあ、今夜はいっぱい銀さんに食べられたいなあと思ってたのにってか!望むところだ」
「ちがう」

 顎を持ち上げられたまま、苦しいくらいに唇を塞がれる。
 気づいたら、私は銀さんのことをなにも知らなかった。知ってるふりをしてたことに、さっきやっと気づいただけ。
 身体中傷だらけで帰ってきても、彼はいつもと同じにくだらない話しかしないし。それでも、ここに帰ってくるのだから、いいと思っていた。
 お喋りに見えたこの男が、本当はなにも大事なことを語らない理由はわからない。へらりと歪むその顔の内側に、なにを隠しているのかも知らない。

「なに悩んでんのか知らねえけど」
 お前は銀さんがどれくらいお前のことを愛してんのか、わかってればそれでいいから。

「なにそれ」
「海よりも深く山よりも高くってあんな例えじゃ全然足りねェんだよォ?」
 マリアナ海溝の底をほり進んで深さ追求し過ぎて地球に穴があいちまっても全然足りねェし、山だって富士山よりエベレストより高く高くそびえすぎて宇宙こえてブラックホールまで到達しちまうくらいなんですー。…って言ってて意味わかんねェな。なんだそれ。とにかく銀さんは、お前のことめちゃくちゃ愛してるってことだよ!わかったか。

「銀さんがわかんないなら、私はもっとわからないよ」
「わかんなくてもそういうことなんだよ、バカ」
 だから今夜は黙って銀さんに愛されてなさい。

 めちゃくちゃなことをいうオトコ。銀さんがマリアナ海溝とかエベレストとかブラックホールを知っていることだけで笑える。
 ごまかされたのか真面目なのかよくわからなくなる。

「なーに笑ってんですか、この子は」

 そう言って私を抱く腕が痛いくらいに胸をしめつけるから、わからないままでもいいと思ってしまうのだ。いつも。
 子供の遊びの続きみたいに、無邪気に、でも、真剣に囁かれる愛のことば。それだけを信じていればいい、と。



そしてまた、わざと捕らわれるのです
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