蜘蛛の糸

「おいおい、脅迫かよ。生徒が教師を脅す気ですかァ?」
「そんなつもりはありません」

 蜘蛛は獲物がかかったのを、振動で感じとるのだという。たしかに、私はゆれていた。銀八の顔をみるたび、声をきくたび、胸の奥のほうがざわざわとゆれて。

「俺だって、そんなつもりはねーよ。てか、そんなつもりってどんなつもりですかァ」

 ぺたり。銀八のサンダルの音が、近づく。ぺたり。しずかな部屋に、ひびく音。
 蜘蛛の巣は、かかったと気付いたときにはもう遅い。そういうものだ、と子供の頃から知っていた。ばりばりと頭から飲み込まれる憐れな羽虫。

 朝から妙に真面目な会話をする銀八に、抱いたわずかな疑い。あの予感は、はずれていなかったのだと今更ながら確信する。
 蛍光灯のしろっぽい光に照らされた銀髪が、やけに白々しく見えた。



 うちのクラス、3年Z組には、たいがいめちゃくちゃな人材が集まっている。かなり破天荒だが、根はアツイ者が多くて、話の振り方しだいでは、議論がとんでもない方向に白熱する。
 たぶん銀八は、それを誰よりもよく知っているのだ。そして、そのスイッチの入れかたも。

 朝のSHRで持ち上がった話題は、案の定一日中教室内でもちきり。帰りのHRまで引きずって、放課後に割り込み、外が暗くなるまで延々つづいた。こいつらいい加減にしろよ。

「おめぇら、そろそろ帰れー。つづきは一晩考えてくることォ」
「ええェェェ!?このままじゃ気持ち悪くて眠れないですよ」
「そうアル、夢見が悪くなるネ」
「いやいやいや、俺、眠れないって言ったからね。眠らないと夢なんて見ないからね」
 神楽ちゃん、人の話聞いてる?

「はいはいわかったから、新八は眠らずに考えてきなさい。とにかく続きは明日な。おめぇら、さっさと帰れ」
 それから、日直は今日の議論内容を簡単にまとめて、議事録的に日誌に書いておくことォ。先生、準備室いるから。あとは日直さんよろしくー。

 よれよれの白衣の裾を翻してでていく背中に、舌打ち。今日の日直って、私なんですけど。
 眼鏡の奥の銀八の双眸と、一瞬だけ視線が絡んだ。ような気がした。
 じゃあね、お先にー。頑張ってくだせぃ!肩を叩いて次々に帰っていくクラスメートには、ためいきしかでない。
 元はと言えば、あんたたちがどうでもいいことを何時間も議論してるせいで。それは、銀八が朝からあんなことを話したせいで。散々あおってたきつけて膨らませて、議論を迷走させたのも銀八で。
 その銀八は、きっと最初から、今日の日直が私だと知っていたにちがいない。議事録なんてもんに、あのふざけた教師が目を通すわけないじゃないか。

「はめられた、かな」

 見えないように張り巡らされた細い糸は、しらない間に手首に、足に、首筋に。
 だけど、ほうり出して帰る気にはならなかった。



 出来上がった日誌(テキトーにいい加減な内容。真面目に書いてたら朝になる)を持参したのは、それから30分後。もう、学校にはほとんど人がいないらしい。薄暗い廊下を走って、国語科準備室から漏れる明かりを目にしたら、ホッとした。
 こわい思いをしたあとの安堵感は、予想以上に心をゆるめるのだろうか。

「失礼します」
「おう、入れー」

 間延びしたいつもの銀八の声を聞いたら、もっと落ち着いた。これも彼の計算のうちだとしたら、見えない糸は手足だけではなくて、心にも、しっかりと絡みついているのかもしれない。

「出来たかァ?先生いま手ぇはなせねえからこっち持って来て」
「いえ、もう遅いし帰ります」

 ここに置きますね。入口脇の机に日誌をのせて部屋を出る。ここに長居してはいけない気がした。銀八が今日に限ってこんなことをする理由がわからなかったから。

「おいこら、待てって。この暗い校舎のなか、一人で帰る気ですかー」
「…っ」

 教室からここまでの、淋しい道程を思い浮かべる。たしかに、人気のない暗い学校には、どうしようもなく得体のしれない空気が漂っている。

「送ってってやるから、日誌持ってきて」
「いやです」

 送ってもらえるのは嬉しいけれど、これ以上部屋のなかに踏み込むのは、また別の意味で怖かった。

「送らなくていいってか…そんな表情じゃ、ぜんぜん説得力ないんですけどォ」

 どこかから吹き込んだ風に、背後で扉がぱたり。とじた瞬間、心臓がずきんと痛んだ。そう、なにを隠そう私はかなりの怖がりなのだ。それを知っていて、銀八はこんな状況を作り出しているのかもしれない。
 とにかく、一度すくんでしまった足は、なかなか言うことをきかず、小刻みにふるえている。

「学校の怪談とか、銀さんも信じてるわけじゃねえし。ぜんぜん怖くもなんともねえけど。こんな時間に女の子一人で帰すわけにいかねえだろォ?」

 動けなくなった餌食は、ただ、じりじりと距離をつめてくる補食者を、黙ってみつめることしかできないのだ。いまの私がそうであるように。

 国語科準備室にはいつも、薄暗い、濁った空気がたちこめている。

「勿体ぶらないで、さっさとしてください。先生」

 やつの巣に一度かかってしまえば、最後。もう誰にもそこから助けだせやしないんだから。

「おいおい、脅迫かよ。生徒が教師を脅す気ですかァ?」
「そんなつもりはありません」

 人気のない校舎。なんで私はこんなところに来てしまったんだろう。いや、日直だったからなんだけどね。どうしてこんな日に日直かなあ。というか、普通に通りすぎるはずの一日を先生はなんでこんな日にしたんだろう、ホントに勘弁してほしい。
 くつくつと低く笑う銀八は、また一歩、前へと進む。

「無意識であおる気ィ?」
「ちがう」
「お前、なーに怖い顔してるんですかァ。んな顔してっとモテねえよ」

 ありったけの力を込めて睨みつける。私の顔を見据えたまま、表情を歪める銀八。いまのあなたの顔のほうがよっぽど怖い、そう叫びたいのに、声がでない。
 うすい唇が意地悪な形に持ち上がる、瞳は厭らしく孤を描く。
 ぺったぺったと近づいてくるサンダルの音。そのマヌケな効果音が、いまは恐怖をあおる旋律に聞こえた。

「おっかねえ顔しちゃって」
「………いい、から」

 手の届きそうな距離、銀八は相変わらずやる気のなさそうな目で、こちらを見ている。

「バッカ簡単に行くかよ、そんなの」
「なんで」
「お前がおっかねえからに決まってんだろ」

 ぜんぜんおっかないなんて思ってないくせに。怯えている人間の顔ではない。

「先生の嘘つき」
「人聞きわりいな、銀さんはいつも真面目だよー?」
 不真面目なときには全力で不真面目になるくらい真面目なんですゥ。

「なにそれ」
「なにそれじゃねえよ。恋するときだっていつでも全力投球だから!そのためだったら、脳みそ引っ掻き回して、ない知恵を絞りだすくらい真剣なんだから」
 だから、いい加減お前も気付きなさい。

 触れるほど近づいた銀八の声に、さっきとは違う理由で心臓がさわぐ。胸がきゅうっと痛い。いつもより、鼓動はずっと早まっている。

 怖い、こわいと思っていた。先生に踏み込まれるのも、心を覗かれるのも。それは本当。なのに、眉をひそめる銀八の顔をみたら、もっと知りたくなった。
 もう少し先に、これよりも先に。もっと進んだら、彼はどんな顔を見せるんだろう。

「気づいて…ます。気づいてました」
「…マジでか?」

 ええ。相槌は、唇に阻まれる。いつの間にか、腕にすっぽりと包まれている。あったかい。
 これが蜘蛛に捕らえられた獲物の感覚だとしたら、案外しあわせなものだな。などと思っていたら、再びキスがふってきた。啄むようになんども、唇の感触をたしかめ合う。
 角度を変えて、何度もなんども。
 顎の先をとらえた指先が、頬に耳たぶにすべって、そのたびにキスが深くなる。飲み込まれそうにふかくふかく舌を絡め、顎をのけ反らせる。
 髪の毛にさしこまれたてのひらが、頭を固定して。逃げられないかたちで、さらに、なんどもキスを重ねる。
 いったい、いつまでつづくんだろう。でも、いつまででも続けてほしかった。

「せん…せ、くる し」

 息の仕方がわからない。頭がくらくらする。
 そっと目を開いてみたら、眼鏡ごしの瞳が私をみていた。やさしくて、真摯な目。また心臓が、ぎゅうっと痛い。
 その顔、なに…先生。
 そんな顔、いままで見たことない。

 荒くなった呼吸が、耳たぶを撫でる。キスの合間、私の名前を呼ぶ声に少しずつすこしずつ熱がこもる。
 体温があがっている。制服ごしに肌を掠めるてのひらが、あつい。

 デスクの上、とん、と押されて、呆気なく身を横たえる。眼鏡を外した銀八が、上から私を見下ろしている。

「先、進めんぞー」

 まるで授業中みたいな台詞。
 怖さはいつの間にか消えて、もっと知りたくなっていた。ここから先に進んだら、先生がどんな顔をするのか、どんな声をだすのか、どうやって私にふれるのか。
 先生のすべてを、ひとつも漏らさずに、知り尽くしたい、と思った。そのためなら、これが罠だとわかっていても、よろこんでかかってやる。

「覚悟決めろ。んなゆっくり待ってやれねえぞ」
「そんなもの、必要ないです」

 がくり、銀八が崩れ落ちて、肩に顎の感触。

「これ以上あおんなコノヤロー」

 いつもより低い声、すこしかすれた声。ダメだ。もう。
 どんなに甘い台詞よりも、銀八の低い声のほうが、ずっと胸を掻き乱す。背中がぞくぞくする。

「あおって…ません」

 強がりの言葉が、ばかみたいにふるえている。

 ちくり、首筋に痛みがはしる。生き血を吸われるって、こんな感覚なんだろうか。やっぱり銀八は蜘蛛だ。
 唇のふれたところから、身体の中が溶かされて。どこもかしこもぐちゃぐちゃにやわらかくなって、きっとそのあとは、全部吸われてしまう。
 口をつけた部分から流しこむ消化液で体内を液体化し、餌のすべてを吸い尽くす蜘蛛のように。

 鎖骨をたどるぬれた感触に、身をよじる。襲ってくる感覚のどうしようもない歯痒さに、唇を噛む。
 身体のふるえをとめられず、そっと太い首筋に縋り付いた。



蛛の

(羽根を手折るその腕はひどく優しい)
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