月と愛妻家

 久々に残業ナシのある夜。妻を驚かせようと出来心が働いて、帰宅メールも送らないまま自宅に向かう。こうして時々悪戯をしたくなるのは、意表を突かれたときの彼女の顔が堪らなく可愛いからだと思う。
 今日はどんな表情を見せてくれるのかと想像しながら、土方は思い切り口元を緩めていた。そんな顔をもし生意気な部下 沖田が見たら、きっと形のよい唇を歪めて「死ね土方、気持ち悪い」と吐きそうなほど憎らしい顔で罵倒されるに違いない。

 音が出ないよう慎重に慎重に鍵を開け、全力で足音を忍ばせてリビングに向かう。廊下の突き当たり、ガラス入りのドアのむこうでは、彼女が珍しく本を読んでいた。かなり真剣な面持ちで。
 意表をついてやろうと思っていたはずなのに、妻の意外な姿に俺のほうが意表をつかれて立ち尽くす。
 彼女はページをめくりながら、時折カップを手にとり口に運ぶ。かすかに廊下まで漂っている紅茶の香り。いつもは珈琲党の彼女なのにそれも珍しい。と思いながら、そっとドアレバーに手をかけた。妻はまだ俺に気付いていない。
 音が出ないよう、じりじりとレバーをさげる。意識は手元の動きに集中しているけれど、視線は彼女から外さない。
 都合のよいことに室内には音楽が流れていて、細く開いたドアの隙間から優しいピアノの音が聞こえてきた。たぶん多少の物音なら音楽が掻き消してくれるだろう。
 足音を忍ばせたまま彼女の背後に近寄る。姿勢よく座った背中のラインが綺麗だ。ページをめくる際に少しだけ首筋が動いて、やわらかい髪の隙間からうなじが覗いた。まだ彼女は俺に気付かない。
 どうやれば一番効果的に驚かせてやれるだろうかと考えている俺の目の前で、彼女がうっとうしげに髪を耳にかけた。相変わらず飽きもせずに視線はページを追いかけている。
 彼女はどんなことにしろ、集中すると周りが見えなくなるタイプだ。一つのことをしている時には声をかけても上の空だったり、聴覚を自由に遮断したりするが、すべて無意識らしい。
 そんな妻だから、読書中のいま俺に気付かなくても当然だとは思いつつ、数十センチの距離まで近付いているのにまだ気配も感じないのかと、だんだん寂しくなってくる。ここまで近付けば、身体に染み付いた煙草の香りくらい鼻に届きそうなモンなのに。

「…ふーっ」

 ちらりと見える白いうなじに息を吹きかけてみた。条件反射で軽く肩を竦め、片手で首筋に触れるけれど振り向きはしない。違和感の正体よりも本に夢中ということらしい。
 ちょっと悔しくなって、見えている右の耳たぶに顔を近づける。彼女は俺の低い声に弱いから。息を吐きながら囁いてやればイヤでも反応してくれるはずだ。

「ただいま」
「…っ!わ、な…なにっ!?」

 振り返って俺を見上げた彼女は、思いきり目を見開いて口をぱくぱくさせていた。
 やっぱり、めちゃくちゃ可愛いじゃねえか。予想よりずっと可愛い。じっとしちゃいられねえくらい可愛い。

「ひ、土方さ…!」
「んだよ、その呼び方」

 元部下の彼女は、妻になったいまでもなかなか昔の呼び方が抜けないらしく、不意をつかれて驚いた時や慌てた時などにぽろりとそれが現れる。久しぶりに聞いた懐かしい呼び方に、不覚にも胸が踊った。
 ぱさりと手から離れたただの本に、バカみたいに嫉妬してたのかもしれない。やっと俺のほうに意識を向けてくれた彼女が愛おしくて、くつくつと笑いながら、背中からぎゅっと抱きしめる。

「…びっくりした」
「わりぃ」
「心臓とまるかと思ったよ」
「それは困る」

 じゃあもうしないで、と微笑む彼女の髪に口付けをひとつ。こつんと肩に顎を乗せて、テーブルを覗き込む。

「おかえり」
「おう………珍しいな、本なんて」

 ああ、これ?と言いながら見せられた表紙は、誰もがよく知るファンタジー。

「なんでいまさらソレ?」
「お昼寝してたら、夢を見てね」

 なんか変な夢だったんだけど聞いてくれる?腕の中にすっぽり収まったままの彼女は、俺の返事も待たずに話し始めた。

「雲がずっと下に見えるくらい高い高いところにいて、周りは夜で月が顔のすぐそばにあるの」
「落ちる夢ってヤツか」
「違う。ちゃんと地面に足はついてるんだよ」
「なんだそれ」

 そっと俺の腕を解いて立ち上がると慣れた手つきで背後からコートを脱がせ、彼女は話を続ける。

「身体がびっくりするくらいに大きくなってて、だから足は地に着いてるのに頭は雲の上なの」

 自分の足が見えないくらい遠くにあって、怖かった。ハンガーにコートをかけて、彼女が俺のそばに戻ってくる。

「屈んでみたら足元に小さな小さなトシがいて。ホントに豆粒とか蟻んこみたいに小さくて」
「虫かよ俺は」
「それ位小さかった。まあ、私がデカくなってるだけなんだけど」

 なるほど。それで『不思議の国のアリス』って訳な。

「トシを踏み潰しちゃうんじゃないかと思ったら、もっと怖くなって」

 夢の話を続けながら彼女は俺のジャケットを脱がせ、ネクタイを緩める。

「そっと指先でつまみ上げて掌に乗せたら、トシは一生懸命なにかを喋ってるんだけど全然聞こえないの」
「んだよそれ」
「最初は"マヨをくれー"とか"沖田コロス"とかかもって思ったんだけど、バカなこと言ってるとは思えない結構真剣な顔しててね。って言っても、すごいミニチュアのトシだから表情はよく見えなくて、でも必死なんだなってのだけは伝わってきた」

 一息で喋った彼女が、ほっとため息をつく。つうかお前マヨをバカにしてんのか、俺の言ってることをいつもバカみたいとか思ってんのかコラとツッコミたい気持ちをそっと抑えた。土方さんは大人だからね。

「へぇー…」
「それで掌を耳に近付けようとしたらバランス崩してトシが私の手の上で転んだり起きたり転んだり起きたり転んだり怒ったり…」
「俺で遊ぶなっつうの」
「違うよ」
「んじゃ、なんだよ」
「声が…ね、聞きたくて」

 トシの声が。しゅるり、抜き取ったネクタイをぎゅうっと握りしめて、夢のシーンを思い出しているのか、彼女は眉を顰める。

「だから耳に近付けようとしただけ。でも上手く聞き取れなかった。すごい必死で喋ってくれてるのに」

 神妙な面持ちで話してるところ悪いなと思いつつも、眉根を寄せたその表情がやけに色っぽく見えた。

「もしかしたらトシの声が、もう、聞けなくなっちゃったのかなって。このまま一生トシの声が聞けないのかと思ったら切なくて…ね」
「バーカ」
「それでも一生懸命私に喋ってくれる小さなトシが愛おしくて。どうしたらいいのか分からなくて」

 俺はむしろ今そんなことを言ってくれちゃってるお前のことが愛おしくて堪んねぇんだけど。どうすりゃいいか分かんねえ位、愛おしいんですけど。

「気付いたらトシが自分で私の耳の穴に飛び込んでて、カサカサって耳の奥を虫がはい回るみたいな変な感触がくすぐったくて」
「やっぱり虫かよ」
「ん…ごめん。でもそれで、やっとすごくすごく小さい声が聞こえた」
 小さいけど、ちゃんとトシの声だった。

「なんて?」
「……秘密」

 頬を染めた顔を見せられた途端、衝動的にきつく抱きしめていた。なんだこの可愛い生き物、無意識で俺を殺す気か。

「それで…俺はお前の耳の穴からちゃんと生還すんの?」
「わからない」
「は?」
「トシの声が聞こえたトコで目が覚めたから」

 そりゃ残念。と言いながら目の前にある耳たぶを唇でなぞる。腕のなかで、お前がかすかに震えた。

「んで、俺はなんて言った?」
「…っあ!そう言えばまだご飯の準備できてない、ゴメン」
「んなこたぁ どうでもいいから」
「トシ…"これから帰る"メールくれなかったから」
「わざと、だよ」
「思ったより帰宅早かったし、」
「話 ごまかそうとしても無駄」

 思い切り掠れた低い声で囁けば、素直な身体からは力が抜ける。
 俺の声が聞きたかったんだろう?だったら思う存分に聞かせてやるよ。頭の芯に染み込んで消えなくなるくらい、たっぷり な。

「飯なんてどうでもいいから」
「…でも、」

 反論を紡ぎそうな唇を一度そっと塞いで。軽く耳たぶを食みながら抱き上げれば、抵抗の色は消え失せた。

「先に 昨日の続き、しようぜ?」



月と妻家

逆らえるはずがない、だってあなたを覚えてしまったから。
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2009.12.26
蟻んこの土方さんは、いったい何て言ったんだろう。気になります
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