ふたりの恋愛理論

 真夜中に不意に目が覚め、夜風にでも当たろうと締め切っていた障子を開けて廊下に出た。ひたり、畳から廊下へ足を踏み出した途端に心地よい冷えが身体を捉える。
 つめたい夜風は布団の中であたたまった体温をじわり、じわりと奪っていく。
 いい月夜だ。庭の池に映る月がゆらゆらと揺れて、どこか非日常の風景を作りだす。縁側から足を垂らしたままぼんやり見惚れていると、廊下の軋む音が耳に入った。

「どうなさいました」

 暗闇の向こうにいる人影ははっきり見えないが、聞こえた低い声はよく知る男のものだ。

「……東城」
「眠れないのですか?」
「目が、覚めただけ」

 幼いころからずっと一緒にこのお屋敷で過ごしてきた。若さまと、東城と、私。身分の違いになんて捉われない子供時代は、ただ楽しいだけだったけれど。今ではくっきりと道が分かれている。柳生家の跡取りの若さまと、そのお世話係かつ柳生流四天王筆頭の東城と、オババさんの下で働くただの女中の私。
 三人で過ごした日々は、もう遠い夢のようだ。

「そうですか」

 それ以上何も聞かずに、東城は少しだけ間をあけて私の隣へ腰をおろした。
 背中がかすかに丸まって、横顔にはやさしげな空気をそなえている。多分いつも通り目は細めたままなのだろう。月光に照らされた淡い色の髪がきれいだ、と思った。

「東城は、どうかしたの?」
「どこかの誰かの気配を感じたので」
「私が起しちゃったんだ。ごめん」
「こういう事でもなければ、貴女とゆっくり話せませんのでね」

 そう言ってふっと表情を崩した彼はやっぱり目を閉じていた。
 東城の目を、小さい頃に一度だけ見たことがある。あの池でたゆたう月みたいに、きれいな色をしていた。またあの眼をいつか見れるかな。

「何か話したいことでもあった?」
「そういう訳ではないのですが、たまには…と」

 会話の内容を探しているのか、東城の眉間にはすこしシワが寄っている。そうやって一緒にいる理由見つけようと、この時間を引き延ばす努力をしてくれるのが嬉しい。嬉しいから助け舟を出してあげる。

「ずっと前から思ってたことがあるんだけど」
「なんですか?」
「東城の、その喋り方」
「私の喋り方が、何かおかしいでしょうか?」
「おかしくはないけど、別に私には敬語じゃなくてもいいよ。幼馴染だし」
「もう、癖なのですよ。ずっとこの喋り方をしておりますので」

 おいやですか?と首を傾げる東城に向かって首を振りながら、やっぱり本音では少し他人行儀で距離を感じるから寂しいなと思う。

「東城は、まだ寝てなかったの?」
「若の成長日記を書いていたのです」

 無造作に紡がれた「若」の一言にちくりと胸が疼く。だって私は、もう随分前から東城のことが好きなのだ。鈍感なこの男には全く伝わらないようだけれど。

「ホント、若が好きだよねぇ」

 自分の言葉に心をを刔られる気がして、バカだなあと自嘲していたら、さらに追い撃ちをかけられる。

「ええ。星座占い見るときは必ず若の星座もチェックしておりますし、若の写真は常に懐に入れて後生大事に持ち歩いております」
「いまも?」
「勿論です。ご覧になられますか」

 可愛いんですよ。と、途端に嬉しくて堪らない顔になって懐をごそごそと探る東城を見つめ、ふたたび首を振った。彼が若のことを大切に思っていることは充分わかっていたけれど、ここでいまそれを見せ付けられるのは堪らない。
 無自覚であることは、なんて残酷なんだろう。

「幸せだね、若も…東城にこんなに想われて」
「若のためなら死ねますから」
「相思相愛十年越しなんだから、幸せになれたらいいのにね」
「なんですか、それは」
「東城は変態ストーカーなうえにド天然鈍感野郎だもんね」

 だからきっと自分の感情がどんなものなのかも、若が本気で東城を嫌ってる訳ではないことにも気付いていないのだ。私の気持ちにも。悔しいからずっと、気付かなければいい。

「女子がそのような言葉を使ってはなりませぬ」
「はい、ごめんなさい」
「今日はずいぶん素直なのですね」
「そうかな?」
「"どうせ私は、気高く凛々しく美しい若とは違います"などと言われるのではないかと身構えていたのですが」
「言って欲しいの?」

 いいえ。そう言って東城はまた少し微笑んだ。

「女子に罵られるのは若からだけで充分です」
「それでも若が好きなんでしょう?」
「まあ、主ですから」
「若がいないと寂しくて死にそうなんでしょう?」

 苦しくなるのを分かっていて自虐的な問いを重ねる私に、東城が返してくるのはことごとく予想通りの答えだ。

「可愛くてしゃーないんです!なんとかしてくだされこの気持ち!」
「ちょ、東城声大きい。皆起きるよ」
「は……すみません」

 その時ちょうど東城の袂から一枚の写真がすべり落ちた。わざと傷付こうとしている自分は愚かだけれど、潮時なのかもしれない。
 写真を直視して自覚して、きちんと感情にけじめをつけたほうが良いのだ、と唐突に思った。
 東城はまだ写真を落としたことに気付いていないのか、黙って月を見上げている。凪いだ横顔は相変わらず綺麗だ。

「これ、落ちたよ。大事なものなんでしょう?」

 そっと拾い上げて裏返したそこには可愛い若さま……じゃなくて…え?

「あ…………」
「……それ、」

 ――私…?
 斜めからのアングルで顔は半分しか見えなかったし、すぐに東城に奪われてしまったので定かではないけれど、間違いなく私が写っていた。ような気がする。
 これはどういう事なんだろうと考えるよりも先に、何がなんだか分からなくなって。縋るように見上げた東城の瞳は、ぱっちりと開いていた。

「若と同じ位大事なもの、です」
「同じ、くらい?」
「ええ。若の入浴も覗き見したいですが、貴女の入浴はもっと覗きたい」
「な…なに言ってるの、この天然ド変態男っ!」
「声が大きいですぞ」
「お前のせいじゃ、ボケー!!」
「こらこら、女子がそんな言葉を使ってはなりませぬ」
「東城が悪いんでしょう?」

 肩を竦めた東城は、突然真面目な顔になって私を覗き込む。

「恋愛とは特定の異性ないし同性に対し特別な感情を抱き、その相手と肉体的にも精神的にも繋がりたいと思う感情を指すのです。貴女に対して抱いている感情がそれならば、風呂を覗きたいと思うのも当然のことですぞ」
「……なんの主張?」
「とくに昨今は少子化の抑制と景気回復を狙って、政府とマスメディアは結託して恋愛至上主義論を流布しておりますから、」
「……だから、なんの主張?」

 急に真面目な顔をしてなにを言い出すのかと思えば、どうにもピントがずれているけれど、これは一応東城なりの告白ということなんだろうか。
 若と同じ位大事。いまはまだそれで充分だよ。半分呆れてため息をついたら、東城の困ったような顔が間近に迫っていた。

「全く貴女も鈍いお人ですね」
「東城にだけは言われたくな、っ」

 ひたり。柔らかい感触が一瞬だけ唇を掠めてはなれる。なにこれ。こんな男前な行動は東城らしくない。どきどきする。

「分からなければ行動で示すまでのことです」

 にっこりと不敵に笑う東城の瞳が、私を心ごと奪い去った。



ふたりの恋理論

大切なものに順位などつけられないと言うのなら、私は一生貴方の一番にはなれないのですか?

2010.01.16
「女子」は「おなご」と読んでくださると嬉しいです。
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