にじみだすまえに、
随分と長い夢から覚めて、奇妙な感慨だけが残っていた。うっすら汗ばんだ額に浅くなった息、そしてかすかな恐怖感の名残。
これだけの感覚を残すには、何かストーリー的なものがあるはずなのに、現実と混同しそうなビジョンのなかで一喜一憂していたということ以外はなにも覚えていなかった。
それを勿体ないと思うべきなのか、それとも良かったと思うべきなのかの判断も出来ぬくらいに曖昧な記憶。
「どうした」
「…なんでもない」
「なんでもねぇって顔じゃねーぞ」
暗闇のなか、前髪の隙間にのぞく全蔵の瞳はほとんど見えない。
「なんで見えるの、真っ暗なのに」
「忍だからな」
「……全蔵さんの気のせいだよ」
「そーかよ」
「そーです」
「んじゃもっかい寝るぞ」
「おやすみ」
「ああ」
そう言って全蔵は大きなてのひらで髪を二、三度くしゃくしゃと掻き交ぜてくれたから、ひどくホッとした。
一度寝付けばほとんど朝まで目を覚まさない私だけど、夜明け前に眠りから引き剥がされることが時々ある。全蔵はそのたび目を覚まして、一言二言素っ気ない言葉をかけては安心させるように頭を撫でるのだ。
こうしてすぐに眠りから覚めるのは彼に忍としての生活が染み付いているからなのだろう。それとは逆で眠りに落ちるのも早い彼は、アァアと盛大なあくびを漏らしたかと思えば、既に鼾をかき始めていた。
◆
日に何度も悪夢に魘されることなんて滅多にないのに、その日は滅多にない夜だったらしい。
「っぁあああああああ―――!!!」
自分の絶叫でふたたび目が覚める。バカみたいに呼吸が乱れていた。
まだ外は薄暗い。夢、か…。それが夢だったと分かった瞬間に、深いふかいため息が漏れた。
「んだよ、また」
「ゆ…夢。財布盗まれる、ゆめ」
- - - - - - - - - -
「やっぱり直らなかったんだね」
「わりいな」
「仕方ないよ。全蔵さんがいくら優秀な忍でも、パンクした自転車を直すのはやっぱり自転車屋さんの役目。また後で持って行くから」
「家の前に停めたままで大丈夫か」
「うん。寒かったでしょう、お茶でも飲んで」
「財布、前カゴに入れっぱなし」
「そうだ。出かけようと思って、」
現金はたいして入っていないけれど免許証やクレジットカード、保険証もなくなるのは困るし。それにあれは全蔵に買って貰った大事なお財布。
「取って来るよ」
「あ……おい!」
走り出た家の外には前カゴが空っぽの自転車がぽつんと停まっている。
ま、マジですか?全蔵が戻ってきてまだ三分と経ってないのに、ない。ないッ!お財布がないィィィィ!!!!!
脳内を駆け巡るのは、早く警察に届け出しなくちゃとか、カードの再発行と使用停止の手続きしなくちゃとか、しばらく病院にも行けなければ車にも乗れないとか、面倒臭いことだらけ。
なんでこんな事に、最悪だ――
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「で、あの絶叫って訳か」
「そういう訳です」
「ったく女ってのはどいつもこいつも煩くていけねぇな」
「ごめん」
「屋根裏のネズミじゃあるまいし、夜くらい大人しく寝るモンだ」
「全蔵さんにもらったお財布。自転車のカゴに入れっぱなしって、」
「バカだな」
「うん」
「でもそういう場合、俺が持って入んだろ」
忍ってのは慎重派なんだから、と付け加える全蔵の素手がそっと頬を包み込む。片頬だけに感じるあたたかさで、自分の身体が思ったより冷え切っていることに気が付いた。
「…そう、か」
「そうだよ」
全蔵が財布置きっ放しのまま部屋に戻ってくるはずはないし、あれはただの夢だ。
心から安心するいっぽうで、今度は"女ってのはどいつもこいつも"という言葉が引っ掛かっているなんて、もう言えないと思ったら苦しくなった。
「なんだよそのしかめっ面は」
「別に」
「まだ何かあんのか?」
私にはほとんど全蔵さんの顔が見えないのに、彼にはしっかり見えているらしい。狡い、不公平だ。それが忍の持つ能力だとするなら、今はとても残酷に思える。
「なにも……」
暗闇の中で手を伸ばし、彼の頬を探り当てる。指先に触れた薄い髭が、やさしい感触をかえした。
「で、俺はどうすりゃ静かに寝かせて貰えるんだ?」
その問いには答えずに、頬から唇へと指をすべらせる。りんかくをなぞり、形を確かめるようにゆっくりゆっくりと薄い口唇に指先を這わせて、無言のおねだり。
全蔵は摩利支天の異名をとる忍の中の忍だから、言葉にしなくてもたいていの感情は読み取ってしまう。たまにはそれを利用させて貰ってもいいでしょう?
「なるほど。そりゃありがたい」
「分かったの?」
分かんねえはずねえだろ。言葉とともに背骨が軋むほど抱きしめられて、耳元で低い声が響く。
「キスぐらいで安眠が確保できるんなら、いくらでもくれてやるよ」
ふわ、猫のようなやわらかい髪が首筋をなでて、背筋がぞくりとふるえた。ああ、やっぱりバレている。浅ましい欲望も、見えない過去の女たちに妬いていることも。
読みとって欲しいと望んだくせに、読みとられれば少し悔しくて、形ばかりの反抗をしようと吐き出しかけた息は、唇に吸われてしまった。
「その代わり、」
絡まる舌を一瞬だけ離して、全蔵が瞳を覗き込む。
やっと薄暗さに慣れた目に全蔵の端正な顔立ちが映る頃、ふたたび耳たぶを撫でた声に、安っぽい嫉妬なんて一瞬で溶けた。
「途中で止められなくなっても知らねぇぞ」
にじみだすまえに、全部、ぜんぶ簡単に見抜かれてしまうのだ――