Are you ready?

 さっきまでいつになく教師らしい銀八の真面目ぶった横顔をちらちらと盗み見ていたのは私のほうだった。教師と生徒の境界をどうにかして飛び越える方法がないかと様子を伺っていたのは私のほうだった。

「……せんせ、ちょ!」
「今更何言ってんのォ」
「ちょっと、待って…」

 そんな私の気持ちに気付かないふりをしたまま「物欲しげな目線なんて見せられたら先生その気になっちゃうんですけどォ」と、冗談めかした口調で受け流す銀八にひそかに歯痒さを感じていたのは私のほうだった。受け流しながら決して視線を合わせようとしない銀八の目に、どうにかして自分の姿を映したいとそればかりを考えていた。なのに少し顔がこちらを向いたと思っても、額の上を視線は素通りするのだ。それがもどかしくて堪らなかった。
 先生のためにスカートのウエストを一つ余計に折って短くしたり、いつもより胸のボタンをひとつ開けてみたり、グロスも塗り直したしこっそり香水もつけてみた。だけど歯牙にもかけて貰えずに、やっぱり銀八は子供になんて興味がないんだと唇を噛み締めるばかり。

「だから今更だっつうの」

 ふたりきりになりたくて、放課後の国語科準備室に呼び出してもらうために宿題を忘れたふりをしたし、テストではわざと悪い点を取った。本当の私は国語が結構好きで、赤点なんてとるはずないのに。そうやって必死で気を惹こうとしても、どんなに熱視線を送っても、全く靡かない銀八だった。さっきまで――

「でも……」

 なのに今は状況が一変している。なにがきっかけかも分からないうちに、部屋の空気はすっかり色めいて、銀八からは雄の匂いが漂っている。私はといえば期待していたはずの状況が現実になった途端に、逃げ出したくて堪らなくなっているのだ。

「でも、なんですかー?」

 じりっ、少し近づいた銀八を見つめてごくりと咽喉を鳴らす。

「常識的に考えて下さい」
「誰に言ってんのォ?俺、坂田銀八ですけど。この高校で最も非常識って言葉が似合う教師なんですけどォ」

 そう言ってくちびるを歪めた銀八が、また少し距離を縮める。彼の眼にはさっきまでとは打って変わって私がはっきりと映っている。

「そういう開き直りかたは如何なものかと思います」
「じゃあどういう開き直りかたなら良いんですかァ?」
「いや、そういう意味ではなくて」

 分かっているくせに、狡い人。それともこうやって雄の本性を剥き出しにして攻める姿勢を見せれば、私が怯んで逃げ出すと読んだうえで意図的に艶っぽい空気を作っているのだろうか。

「日本語は正しく使いましょうね。その開き直りかたは如何かって言ったら、方法を変えれば良いんだと思われても文句は言えねぇだろ」
「そういうの、屁理屈って言うんです」
「屁理屈だって立派な理屈だよォ。悔しかったら言い返してみ」

 また少し近づいた銀八は余裕の表情を浮かべている。あんなにその眼に映りたかったのに、至近距離で見つめられたら眼を反らしたくなる。

「とにかく、開き直ってもダメなものはダメ……です」

 強気な言葉を吐き出す唇はすでに震えていて、声だって泣き出しそうに頼りない。こんな声でいくら抵抗しても、銀八を付け上がらせるだけだと思った。

「で、ダメってなにが?」

 白々しい声で問い掛ける顔を見上げれば、銀縁眼鏡の奥で瞳が三日月型に歪む。厭らしい顔。近づいた唇からは、染み付いた煙の匂いがした。
 こんな状況で"ダメってなにが?"も何もない。殺風景な国語科準備室には銀八と私のふたりきりで、夜更けの校内はすでにひっそりとしている。
 私は誘ってくれと言わんばかりに短いスカートから脚を剥き出しにしているし、銀八は今にも触れそうな距離まで迫っている。第三者に目撃されれば誤解される姿勢であることは間違いない。

「……先生」

 いつもは銀八だとか銀さんと呼んでいたけれど、牽制するようにわざと立場を表すその名で呼ぶ。だけど余りに近い銀八の綺麗な顔にそれ以上言葉を続けられなくて口を噤んだ。
 やめてと言うのも違う、何故と問い掛けるのも違う、かと言って抵抗もせず受け入れてしまえるほどの覚悟も出来ていない。そんな所がやっぱり私は子供なのだ。
 眼鏡の奥の瞳を見据えれば、同じように見つめ返される。目線の端にうつるよれよれの白衣が、愛おしい。言葉はひとつも見つからないのに、沈黙がすべてを語っている気がした。





 ふざけた台詞は理性をつなぎ止めるための重要なツールだ。俺はもともと教師には不似合いな常識しか持ち合わせていない男だと自覚していたから、なおさら戯れ事を吐くことで踏み留まっていた。
 いつもより短いスカートにも開いた胸元から覗く白い肌にも気付かないふりをして、必要以上に真面目ぶったりふざけて見せたり。そうやって素の自分以外の姿を演じることで抑止力を発動させる。
 無理をしなければたった一瞬で吹き飛んでしまうくらいの儚い理性なのだ。一度の視線の重なりで、たった一言の台詞で、膝が軽くぶつかるだけで、きっと簡単に崩れ去る。
 分かっていたから細心の注意を払って警戒していたのに、ふ、と目が合ってしまった。

「……っ!」

 俺が好きで好きで堪らないと訴えるような目だった。潤んで溶けだすような目だった。抑えていた想いを簡単に引きずり出されてしまうくらい愛おしげな双眸に見つめられて。

「銀八…」

 そのうえ柔らかく掠れた声で名前を呼ばれたら、理性など呆気なくぷつりと切れてしまった。そうなればもう歯止めなんて効かない。
 素直な身体は勝手に動きだす。触れたい本能に従って。
 こつん、ぶつかった膝頭から伝わるひんやりとした体温も、拒み続ける口調も、だけど本当は拒んでいないと告げる瞳も、揃って征服欲を刺激する。

「ちょっと、待って…」

 そう言われるたびに抑圧し続けていた衝動が跳ね上がる。
 お前のせいだ。お前のせいだから銀さん我慢してたんだから悪くねぇぞ。お前のせい、全部お前のせい。銀さんのなけなしの理性を捩切ってくれちゃったお前のせい……。
 屁理屈で彼女を捩伏せながら余裕ぶって笑ってみせても、本当は余裕なんて全くなくて。無理矢理抑えなければならないほどに自分は強欲な人間だったのだと、気付いたときにはもう彼女を組み伏せていた。





 銀八の両手に力がこもる。
 冷たいスチールデスクが背中から熱を奪ってゆく。両腕はがっちりと大きなてのひらに押さえられ、脚は銀八の太腿に挟まれて全く身動きが取れない。つまりは、不良教師に押し倒された善良な子羊が私。

「……っ」

 見上げれば眉間にシワを寄せ、瞳を眇めた銀八の顔。眼鏡越しの真っすぐな視線に息を飲む。
 拒みきれず、ついにくちびるを塞がれた瞬間。一気に鼓動が早まって、心臓の膜が大袈裟に震えはじめる。
 銀八にいまキスをされている。
 いつまでも何度も何度も続くキスに息苦しくなって、くちびるを離そうともがけば逆に舌を掬われた。
 めくれ上がったスカートの裾から侵入した指先が太腿をさらさらと撫でている。そんなところを他人に触られるのは初めてで、擽ったさに思わず白衣の袖をぎゅっと掴む。

「ぎん…ぱ……」
「っべ、これはさすがに」

 やめて欲しいのか続けてほしいのかも分からずに、泣きそうな顔で見上げたら「続きはもっと落ち着ける場所でな」と低い囁きが耳たぶを撫でた。


Are you ready?
こんな風に隙を見せんのは、俺だけにしてくれ。頼むから。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -