紙一重のオトコ

 ある休日の昼下がり。
 東城の部屋で、彼がなにやら黙々と帳面に書き付けている背中を見ながら、あたたかい太陽の陽射しを浴びていた。こんな何でもない時間がとても好きだ。
 たまたまめくった手元の雑誌にはありきたりな特集記事。各界の著名人らが、自分の好きな漢字一文字とそれに纏わる想いを語っている。

「へぇー…」

 小栗旬之介くんの記事を読んでぽつりと呟いたら、そっと筆を置き東城がこちらを振り返った。


「東城は好きな漢字ってある?」
「もちろんありますぞ!」

 突然すっくと立ち上がり、私の傍へ近づいた東城の姿に、いつぞやの悪夢を思い出す。「東城×質問」は極力避けるべき禁忌事項だったのに。また私は地雷を踏んでしまっただろうか。いや、踏んでしまったに違いない。

「なに…?」

 地雷と分かっていて問いを続けるほどバカバカしいことはないと思うけれど、珍しく見開いた糸目をキラキラさせた東城の嬉しそうな姿を見ると逃げられなくなる。
 こうやって私はいつも自爆するのだ。主に、東城に関することのみで。

「私の好きな漢字、それは…」
「………」
「辛いの‘辛’です」

 ドドーン。効果音が聞こえそうなほど得意満面の笑顔で告げられて、私はがっくりと肩を落とした。やっぱりか…。

「さ……さすが、東城」
「貴女なら分かってくださると思っておりましたっ!嬉しいですぞ」
「……いやいや、厭味なんですけど。そんなに辛いことが好きだなんて、どんだけマゾなのかと呆れてるんですけど」
「私がマゾですと?失敬な」
「違う…の?」
「この東城歩を、ゆめゆめ見くびらないでいただきたいっ!」

 てっきり東城は、いたぶられ弄られ虐められ蔑まれ足蹴にされるのが大好きなマゾヒストだと思っていたのだけれど。鼻息を荒げて仁王立ちの姿は、本気で憤慨している様子。「東城=マゾ」の等式は、私の勝手な思い込みだったのだろうか。
 座ったままで見上げれば、すごい威圧感だ。気迫に圧されて、口からは謝罪の言葉が飛び出した。

「ごめん」
「そうですぞ、謝ってくだされ!私はマゾではありませぬ」
「だからごめんなさい…って」
「マゾなんて甘っちょろいモノと一緒にされるとは甚だ心外というもの」
「……すみませ……ん?」

 ぎらぎらし始めた東城の姿に、ある意味予想通りの微かな不穏を嗅ぎ取って首を捻る。
 ちょっと待って。マゾが甘っちょろいって…なんですかそれは!?

「何故なら私は、スーパーマゾだからです。いや、ウルトラスーパーマゾ」
「えーっ…と」
「いやいや、超ウルトラスーパーマゾ。いやいやいや、超ウルトラスーパーエクセレントマゾと言うべきか」
「……………」
「いやいやいやいや、超ウルトラスーパーエクセレントブリリアントマゾ。いやいやいやいや……」

 延々続きそうなマゾ形容詞にうんざりして、猛然と立ち上がると精一杯背伸びをする。そうしないと、背の高い東城の頭まで手が届かないから。

「むしろ、超ウルトラスーパー……」
「もうエエわっ!ボケェ」
「…ふぐはっ!!」

 ぺちーん。思いきり後頭部を張り倒してやった――その瞬間。
 絶対痛かったはずの東城の顔が幸せそうに歪むのが見えてしまったのは気のせいだろうか、気のせいだと思いたい。

「それそれ!それなのですよ」
「なに…」

 見たこともないほど嬉しそうな顔を見せ付けられて――恍惚の表情ってこれですね――内臓が口からこぼれ落ちるくらい盛大なため息が漏れる。

「女子の関西弁ツッコミと張り手のコンビネーション技。それぞまさに、超ウルトラスーパーエクセレントブリリアントハイクオリティマゾにとって最高のご馳走ですぞ!」
「はぁ………」
「貴女はやはり、さすがです。超ウルトラ〜略〜マゾの、この東城歩が見込んだ最高の女子っ!」

 またマゾの形容詞が一つ増えていることには、ツッコミを入れる気力もない。喜々としてマゾ談義を続ける東城に、根こそぎ精気を奪われた気がする。

「で……辛いの字が好きな理由って、結局そういうこと?」
「いいえ」

 すっかり脱力した身体を後ろからそっと包まれたけれど、私にはもう逃げる力もなかった。くん、と鼻を啜る音がして、東城が鼻先を私の髪に埋める。

「そうではありませぬ。先程もそう申し上げたつもりなのですが」
「…そうなの?」

 耳のすぐそばで聞こえるやわらかい声。髪をなぞる鼻の感触が擽ったい。眼を閉じて味わう私を、東城はすっぽりと胸に収めた。

「はい。私が辛いの‘辛’の字を好きな理由はですね、」
「うん」
「もう少しで幸せになれそうな字、だからです」
「え?」

 私を抱きしめたまま腰をおろした東城は、筆を手に取り、ふっと笑みを漏らす。真っ白な紙の上さらさらと手を動かすと、見惚れるほどの達筆で二つの文字を書いた。



『 辛 』

『 幸 』



「ほら。見てごらんなさい」
「あ!」
「お分かりですか?」
「もう少しで幸せになれそうな字…」

 そうです。と耳元で柔らかい声が響くのが心地よくて、背中をそっと東城の胸に預ける。肩に乗る顎の重み、障子越しのやわらかい光、首筋を撫でる息遣い。

「まるで、今の私たちの状況のようではありませぬか?」
「どういう…こと…?」

 そっと振り返ったら、ぎらぎらと眼を血走らせて鼻の穴を膨らませた欲望剥き出しの男の顔が目に入って。ぞくり、全身に悪寒が走る。

「も…もうそろそろ、忍耐も限界。辛いのにも限度というものがある…っ」
「え?ええっ…?」
「いや、でももう少し我慢すれば益々この後の気持ち良さが増す…いやいや、やはりもうぎりぎり」

 けれど、やはり、でも。いやいや、しかし…嗚呼、どうすればよいのだ――短い接続詞を並べ脳内で苦悶している東城からそっと眼を反らそうとした…ら。

「とう…じょ……っわ!」

 たった一瞬で鮮やかに体勢が反転して、仰向けに畳へ押し付けられた背中がひやりと冷たい。顔の横で床に縫われた両手は全く動かない。こういう時、やっぱり東城って男の人なんだなあと思う。

「一つ部屋、いつでも触れられる距離に惚れた女子がいて。無防備に私に身体を預け、白い肌を晒し、甘い匂いを振り撒いて思う存分に誘惑されているのに我慢に我慢を重ねて自分の限界に挑戦し続けている男のこの気持ち」
「あ…の、」
「何とも言えぬこのむず痒い気持ちの良さが、貴女に分かりますかっ!?」

 珍しく眉間に皺を寄せた顔がじりじりと少しずつ近づく。相変わらず東城はバカなことを喋り続けているなと呆れているのに、今にも触れそうな端正な顔にうっとりもしている。
 苦しげな男の姿は、なぜこんなに魅力的なんだろう。

「ほんのもう少しで目眩く幸せに飲み込まれそうなのに、ぎりぎりで堪えているこの歯痒くも愛おしい感覚が分かりますかっ!?」

 東城が喋るたびに、吐息がくちびるをやさしく掠める。飴色の長い髪は頬をやわらかく撫でている。

「快楽を貪る直前の、この胸の焦げそうな気持ちが分かりますか」
「………っ」

 熱い眼差しに射竦められて、「分かる」と叫びたいのに嗄れてしまった喉からは声が出なかった。

「まるで腹の底をじわじわと刔られているような、痛みと紙一重のこの微妙な悦楽が分かりますか」

 きゅっと目の前で東城の顔が歪む。
 今すぐ自分からその口を塞いでしまいたい衝動に駆られたけれど、そうすれば負けのような気がして唇を噛み締める。心臓が壊れそうに波打って、もどかしさに臍の裏側をぐずぐずと掻きむしられる。

「分かりますか…貴女にも」

 寸止めの唇が、熱っぽい掠れ声でそう紡ぐ。浅くもれる息が苦しい。触れたいのに触れてはいけなくて、でもやっぱり触れたくて苦しい。苦しい。
 これが東城の言う感覚なのだとしたら、わかる。もう分かった。充分わかったよ、東城――もう少しで幸せになりそうな辛さ。
 だから。

「やっと…お分かりか」

 肯定の代わりにそっと眼を閉じたら、いつの間にか潤んでいた眦から温かい雫がすうっと流れる。睫毛から目尻、こめかみから頬を順番に辿り、あふれた雫を掬う東城のくちびるはやさしくて、やさしくて。
 耳たぶに溜まった泪をそっと吸われたら、ざらつく熱い舌の感触に心臓が潰れてしまいそうになった。



紙一重のオトコ

幸せになれそうでなれない、そんな究極の焦らしプレイも大好物なのですっ!

(今日の格言:マゾの嗜好は、ときにサディスティックな行為を生むこともある。)


2010.05.22
東城さんの彼女はたいへん
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