視線を交わらせて
執務室の張り詰めた空気をまったく乱すことなく入ってきた藍染副隊長を見上げると、唐突に彼はこう言った。
「君に来るように、って」
主語を省いた伝言の主が誰なのかは、言葉にしなくてもわかる。でもその理由はわからない。
「なぜ私が?」
「さあ。僕には平子隊長のお考えなんて読めないからね」
わざわざ平隊士の私を隊首室へ呼ぶ、というのが解せないのだ。問題行動をおこしている自覚も記憶もないから。藍染副隊長の言葉に首を捻ると、無言の笑み。
投げやりな台詞をほほえみでごまかされた気がして、書類の束をそっと整え直した。机上が片付いている状態は気分がいいから。執務時間の終了間際のこと。
一日のおわりへの序章のようなこの時間帯が、とても好き。空はきれいな暖色に染まっている。
「とにかく、行って」
「はい」
「湯呑みを下げるついでに、急ぎの書類も受け取ってきてくれるかな」
「わかり、ました」
腑に落ちないけれど、来いと言われたら行かない訳にはいかないし。上官の命令は絶対。それがここ、瀞霊廷でのルール。
アルカイックスマイル。相変わらずきれいな笑顔なのに、なんの感情もうかばない副隊長のかお。読めないのは、隊長よりもむしろ、あなたじゃないかな。心のなかだけで呟き、頭を下げて、隊首室へむかった。
「平子隊長。失礼いたします」
扉をそっとあけると、隊長は窓際に立って外を見ていた。夕陽を浴びた長い金髪がまぶしい。
ここにも現世とおなじように、昼と夜があるのを、不思議だと思ったのはずいぶん前のこと。あまりに不可解なことが多過ぎて、こうして自分という存在がここにいること自体がふしぎで、いつしか、そんなことには構っていられなくなった。とにかく、太陽が沈みそうだ。
「おう。待っとったでェ」
「遅くなってすみません」
「そんなんかめへんて」
空の湯呑みを持ち上げる。
机上には、真っ白なままの書類が散乱している。急ぎの書類、というのはどれだろうか。
「副隊長に、一緒に書類の受け取りも頼まれたんですが」
「惣右介もうるさいやっちゃなあ」
そんなんまだ出来てへんわ、ほっといたらエエねん。言いながら隊長はソファに座る。ふわり、金髪が揺れた。
あんなに髪が長いのに戦闘に支障がないのは、やっぱり平子隊長の強さの証なんだろうなあ。
「なにぼーっとしとんねん」
「いえ」
頭のなかを見透かされた気がして、あわてて首を振る。
とん、とん、と、ちいさな音。隊長が、自分の隣を指先で叩いている。とん、とん。
「ま、座りィ」
「あの」
「そんな用事でお前を呼んだんと違う、言うてんねん」
「…はい」
たしかに、湯呑みを下げたり書類を受け取るだけなら、私でなくとも誰でもいいはず。
「お前に聞きたいことがあってん」
「なんでしょうか」
「ここではちょっと、な」
「構いませんので」
「いやいや、俺が構うっちゅうねん」
ならんでいるふたりの距離は十数センチ。空気を介してかすかな体温がつたわる。
「これから付き合うてェや」
「どこに、ですか」
「外。一緒にご飯でも食べながら、ゆっくり」
「いえ、遠慮します」
「そないカタイこと言わんと、ちょっとだけでエエから」
「ここで、お願いします」
「どうしてもあかんか」
「どうしても、です」
まあ、エエけど。ふ、ため息を吐き出す隊長の顔が、ほんのすこしだけゆるんだ。
いい顔。
「前から気になっててんけど…お前、色々考え過ぎなんとちゃうか?」
「なんのことでしょうか」
「…わかっとるクセに」
「………」
考えすぎ。私が?なにを。
「なにもかも、や」
「わかり…ません」
「嘘つきなや」
「うそ、なんて……」
ふわり、と頭を撫でられる。異性のおおきな手で、こうされるのは、昔から好きだ。
ずっとずっと昔から。
「また、男と別れたやろ」
「…!」
どくり。心臓が跳ねる。
なんで。なんで、隊長はこんな話をするんだろう。藍染副隊長の言うとおり、平子隊長は読めない人だ、と思った。なにを考えているのか、さっぱりわからない。
たしかに彼氏とは別れたばかりだけど、どうせいつか別れはくるものなのだ。誰にでも。
別れても構わないような相手だったから、さして傷付いてもいないし。執務に影響なんてないはず。いつも通り、なんの変哲もない一日だった。
もうすぐ陽が沈む。
「根本的に男の選びかた、間違うとるんちゃうか?」
「お…大きなお世話です」
「くだらん男と付き合いなや」
隊首室に、少しずつ夜が忍び込む。明かりを点そうと立ち上がりかけたら、そっと腕を引かれた。
まだこのままでエエから。瞳で告げる隊長に、黙って従う。
「どうせ変なこと考えてんねやろ」
「ヘンって、なんですか」
「いつ別れてもかめへん、どうでもエエ奴ばっかり選んどるように見えんねん」
考えすぎの弊害や。
この人はなぜ、こんなにも。
隊長はやっぱり。なにもかもお見通しだ。敵わない。
この世界がいつまで続くのか、ここはなんなのか、死神と死の関係は、いのちは、太陽と月はなぜここにものぼるのか。考えはじめるとわからないことばかりで、この生活はもしかしたら、ぜんぶ夢なんじゃないかと思うことがある。
壮大で緻密な、長いながい夢。
だから、いつ覚めてもいいように、心は残さない。そんな相手ばかりを選んできた。
「放っておいて下さい」
「アホか。見てられへんやんけ」
「なぜ…」
どういうこと、それは。
もしかして――…
「隊士の心のケアも、隊長の務めやからなァ」
ここには家族もなんもいいひんし。
隊長の務め。家族の代わりに、心配してくれてるだけ。
すこし、寂しくなった。なにを期待していたんだろう、私は。もしかして、なんて勝手に期待して。勝手にがっかりしている。
「大丈夫です」
「ほんまか?」
「ええ。それより仕事してください」
「お前がまたロクな男選ばへんのちゃうかと思たら、手ェつけへん」
「そんなこと言ってても、たまる一方じゃないですか」
「そんなん、たまる言うなら俺のんかて溜まるいっぽ…」
きっ、と睨んだから言葉を飲み込んだらしい。
なにそれ。さっきまであんな話してたのに、一瞬後にはそっちの方向に話を持っていこうとする。だから、男の人は苦手。だから隊長は読めない。
「なんの話ですか」
「なにって、アレに決まってるやん」
「………」
「そんな聞きたいん?お前って案外、厭らし……ッ!」
ごん。鈍い音。
持っていた湯呑みで、頭をおもいきり殴った。
手を挙げるのは失礼だけど、これはセクハラへの制裁だから許されるはず。
「違 い ま す !」
「何すんねんな、頭割れてまうやろ」
「割れてしまえ」
イタタ。頭をさすっている姿は可愛い。ほんとうは隊長なら、簡単に避けられたはずなのに。これも彼なりの心のケアというやつなんだろうか。
「怖いなァ」
「さっさと書類、終わらせて下さい」
「お前が一緒に飯食いに行ってくれるんなら、やったる」
こうやって、固まった私の心をほぐしている。そういうことなのかもしれない。
「だから、遠慮しておきますって」
「なんでやねん」
「席官でもない一隊士の私が、隊長と同席するのは恐れ多いから…です」
「相変わらず、カタいなァ」
「性格ですから」
「考えすぎや、言うたやろ?」
「そんな急に考えは変えられません」
「せやったら、」
ニヤリ。隊長の顔が歪むのを見たら、イヤな予感がした。こういう表情をするときの彼は、いつもに増して侮れない。
「無理にでも変えたるわ」
「むりです」
「隊長と一隊士の関係じゃなくなればエエんやろ?」
「……え?」
「ほな、命令や」
俺と一緒についてきィ。飯、行こ。
そう言って、かすかに眇めた瞳で覗き込むから。身動きがとれなくなる。さらり、肩から流れる金髪。
透き通る琥珀に自分が映る。私が隊長のその目に弱いって、知っているんだ、きっと。
狡い。まるで縛道のように、縫い付けられる。うごけない。
「まさか、言うこと聞かれへんわけないよなァ」
「…狡い、です」
「せやな、俺は狡いねん。知れへんかった?」
楽しそうに唇を歪める顔。その表情にも縛られる。近づいた額。低い声が耳元で囁きつづけている。
「開き直りですか」
「さあなァ。で、どないすんの」
「……私に選択権があるとでも?」
「モノ分かりエエ女は好きやで」
「物分かり悪くなりたいです」
くつり、低く笑う彼。
きっと私がどんなに気の強い発言をしても、彼には効かない。本心なんて、隠すだけ無駄なのだ。
「なったらエエんちゃう」
でも。逃がさへんけどな。
囁きひとつで、こんなにもたやすく呼吸を奪われる。その声で、息がとまりそうになる。
酸欠になりそうな濃密な空気。頬に触れる指先。薄暗い部屋のなか、至近距離で睫毛がゆれる。隊長が喋るたびに、咽喉仏がちいさくうごいている。
近づきすぎた彼から、いいにおいがして。胸が、くるしい。息を吸い込むのも吐き出すのもわすれている。
「なんちゅう顔してんねん、襲ってください言うてんのか」
掠れた甘い声。どくんどくん脈打つ鼓動が、耳のすぐそばに聞こえる。声がでない。誰かと付き合って、今までこんなにどきどきしたことってあったかな。
顔が熱い。くらくらする、苦しい。くるしい。くるしくて、隊長の羽織りの胸元をぎゅっとにぎりしめる。
たぶん私、
この人のことが好きなんだ。すごく。どうしようもないくらい。
「ほんま…難儀なやっちゃなあ」
するどい双眸が、愛おしげにやわらいで。見つめられながら、名前を呼ばれたら、目眩がした。
視線を交わらせて次は俺にしときィ、後悔させへんから
2009.10.02
懐の深いオトコに上手に転がされるしあわせ。
美雨さまとのコラボ作品でした。
以下に麗しいイラスト(美雨さま作)を飾らせて頂いています。
drawn by MIU