それは些細な
「いい加減にしときや」
いつになく尖った真子の声に、肩が揺れた。男の人の大きな声は昔から苦手だ。周りにそんな風に声を荒げる人はいなかったから。
「ごめんなさい」
「……」
ひとまずは謝らなければいけないと思った。彼が声を尖らせるのには、必ず理由があるはずだ。その理由がなにかはわからないけれど、おそらく私が悪い。
「ごめん、なさい」
「は。やっすいのー」
「え…?」
「お前の謝罪は安いねん、いっつも」
ほんまに悪いなんて全然思てへんのやろ、そう続けた真子は、不愉快さ満開の表情をしている。
苦々しげに顔を歪めていても、真子は魅力的だ。眉を顰めた表情は切なげだから、怖いのにみょうに艶っぽい。と思ったけれど、いまそれを口に出すのは憚られた。
自分では心から謝る言葉のつもりだったけど、彼をみてどこかでうっとりしているのは、やっぱり本心では反省していないということなのかもしれない。これでは「安い」と言われても文句は言えない。
「ほんま、けったくそ悪いな」
「ごめん」
「知らんわ」
こうなってしまった彼は聞く耳を持たなくなる。感情的になることをいつもなら嫌っている彼なのに、どうしてこうなっているんだろう。
ここで首を傾げたり、理由を問いただすような態度をとれば火に油を注ぐだけだということは分かっている。だから、そうはしない。だけど、少し離れた所からふたりのやり取りを振り返ってみれば、やっぱりちょっと理不尽だとしか思えなかった。
腹減ったわ、ピザでも頼もか。言われたとき、お腹は空いていなかった。ぜんぜん。
私と彼とでは体のつくりが違うから、同じように食事を取っていても彼はお腹が空いているのかもしれない。我慢しても構わない。だから、言うことを聞いたのに。
注文の電話をして、読み掛けの本に再び向き直る。予想より早くにインターホンがなったことには、意識の隅っこで気付いていた。
真子が財布を持って玄関へ向かったことも。プシュ、ビールをあけたことも。微かに音が頭に入り込んでいた。
でも、それより目の前の文字列に夢中だった。だってあの本面白かったから。
おい、食わへんのか。問い掛けには生返事。先に食べていてくれればいい。軽く考えすぎたんだろうか。
もうすぐクライマックス、残り数ページ。一番邪魔されたくない感じに気持ちが高揚し、やがて訪れるラストにむけて集中していた。この作者は絶対に読み手を裏切らないから。
「おい!」
「いまイイ所だから放っといて」
「そんなん今やなくてもエエやろ」
「私にとっては食事のほうが今じゃなくてもいい。さっさと食べれば」
「なんやねん、ソレ」
「真子ひとりで食べればイイじゃない」
「お前…何を偉そうに言うとんねん」
低い声。怒気を孕んでいることに気付く程度、意識を彼に向ける。
あ。言い過ぎた、かも。
と思った時にはもう遅くて、珍しく顔をいびつに歪めた真子が、深いため息をこぼしていた。
「もうええわ。食欲なくなった」
デカいピザを目の前に、途方に暮れる。ひとりで全部なんて とても食べきれない。
「真子、待って」
「寝る」
「ごめんなさ…」
「知らんわ!」
顔も見ずに寝室へ引っ込んでしまう背中は、何もかもを拒絶していた。
なんてバカバカしい。どうしてこんな事になっているんだろう、彼の気に障るようなことをするつもりはなかったのに。
やっぱり偉そうに言い過ぎた。でも一度発してしまった言葉は、元に戻せない。
テーブルに目を向ければ、水滴のついた缶の横に寄り添うように置かれたふたつのグラス。真子が出してくれた それを見れば、じわじわと罪悪感が湧きあがる。
理不尽なのは、私の方だったのかも。
扉ひとつ隔てたところで、沈黙は続く。
こうやって互いに心を閉じていれば、問題は勝手に育まれてゆく。そういうもの。わかっているから歩み寄りたいのに、些細な行き違いは時間が経てばたつほどに捻れて、増幅される。
あの時もう少しだけ口を慎めば、とか。文字から得られる快楽をさきのばしする余裕があれば、とか。考えても仕方がない。
こうなったら、本の続きなんて頭に入らないのだ。真子の言う通り、いつでも良かったのにと今頃思ってもどうにもならないけれど。
こんなの本当にいつでも良くて、顔を見ながら食事をするほうがずっと大事なことに思えた。
目の前で美味しそうに湯気をたてるピザが悲しい。良い匂い。濃いチーズの香り。
蓋の空いたまま置き去りの缶ビールを、ぐいと一気に飲んでみる。投げやりだ。頭がくらくらする。
「ばかみたい」
本当に、ばかみたいだと思った。この状況も、自分も。
お腹は空いていなかった。ぜんぜん。
でも。一度我慢すると決めたのだから、最後まで真子に付き合えばよかったのに。ただそれだけで良かった。なのに何で私は――
食べる気にもならなくて、何をしたらいいのかも分からなくて。意地を張るのも、違う。
本を手に取ってみたけれど。どこがそんなに面白かったのか、まったく分からなくなっていた。
物に当たるのは好きじゃない。
だけどいま紙を手にすればびりびりに破りたい衝動に駆られるだろう。ガラスを手にすれば粉々に砕きたいし、ピザは箱ごとダストシュートに投げ込んでしまいたかった。
そんな打算まみれの短気で、問題が解決する訳でもないのに。
息をゆっくり吸い込んで、止める。
ゆっくり吐き出して、また止める。仕方がない。しかたない。
でも、ほんとに仕方がないんだろうか。
「ばか……みたい」
「ほんまやで」
「……!」
「アホちゃうか」
ドアの向こうから聞こえた声。蔑みの言葉に、温かさを感じる私は、きっとアホなんだ。だけど、アホでもいい。
音もなく開いた扉のむこう、真子の呆れた顔すら嬉しいなんて。
「しん…じ」
「ほら、何ぼーっとしてんねん。さっさと喰うで」
何事もなかったように向いに座る真子は、ただお腹が空いているだけなのかもしれないけれど。
「お前だけ飲みなや。狡っこいなァ」
俺にもくれ、酒でも飲まなやってられへんやんけ。茶化すように言いながら缶を奪われる。
これがたぶん真子のごめんね。
つめたく冷えたアルミ缶の上で、指先が重なって。じわり感じる肌の熱に、胸がきゅうっと詰まった。
それは些細な もうええわ、許したる- - - - - - - - -
2009.08.17
なんてこともない夜の風景。