世界のリアルを俯瞰せよ
夕暮れの街。たくさんの人たちが目まぐるしく通りすぎる。すたすたすた。誰ひとり足をとめず、焦点のずれたうつろな瞳で、揃って同じものを見つめている。手にした無機質な物体。
立ち止まるのは、私だけ。
季節はきもちのよい秋。街路樹が色付いてきれいだ。日没間近の空は透き通ったオレンジ、吹き抜ける風はやさしい。
なのになぜ皆ちっぽけな物体にしがみついて、周りを見ないんだろう。それ以外に大事なものはないのなら、誰もがどこかぼんやりと見えるのは、なぜ。
「お待たせっス」
行きましょうか。するり、自然に掌を包まれる。近づいてきた喜助さんが、手ぶらなことに心からほっとした。
手をつないで歩く。
すれちがう他人は相変わらず。色付く葉や空の代わりに、ちいさな液晶画面を覗きこむ。会話もせずに、各々の手にした物体に夢中。周囲には目もくれず、見えない相手に大声で喋り続ける。そんな人ばかり。
アンバランスだな、と思う。掌中の世界に夢中なのに、うつろな目。肩が当たる、詫びもせずに去っていく。彼らはなにを見て、なにを聞いているんだろう。自然の美しさのなかで、唯一不自然に見える行動。変な光景。
なのに疑いもなく一様に同じ行動をくり返す人々。違和感を覚えるのがもし私だけなら、自分のほうが可笑しいんだろうか。
「どうかしたんスか」
不安に視線をさ迷わせたら、やさしい彼の目にぶつかった。喜助さんはいつも、気配のゆらぎをひろい上げるのがうまい。
「……喜助さん」
「はい」
「あの人たちって」
「ヘンですよねー、みなさん」
「やっぱり?」
私だけじゃなかった。上手に掬い上げられて、ためいきが出た。
「ええ。時代っスかね…こんなにきもちイイ空気なのに」
「もったいないなんて言うのは、おおきなお世話なんだけど」
でも、アタシもそう思いますよ。言いながら、喜助さんの指がぎゅっと絡みつく。恋人繋ぎ。
そのカタチは、彼が私の感情を正確に読みとっている証拠だ。いつも、私が不安を感じた瞬間に、彼がとるお決まりのカタチ。
ゆるい空気を纏っているくせに、喜助さんは情操に関わることにはやけに敏感で。やっぱり隠しごとはできないのだなあ、と思う。
喜助さんのその行為はけっして厭らしくも押し付けがましくもない。長くてきれいな指が絡んで、いっしょに心まで絡めとられる。
「現世ってのはストレスフルな世界っスからねえ」
現世。という言葉に引っかからなかったかといえば嘘だけど、それより前に、同意をもらえたことが単純にうれしい。
彼と自分は違う世界の存在、そのタブーを口にするつもりはない。ふたりの差異が消えることはないとわかっていて、それでも、同じものを見ておなじように感じているのなら、ただそれだけでうれしかった。
「そうですね…悲しい光景、だな」
今は今しかないってことを、みんな忘れてしまっているんだろうか。自分の目でみて、肌で感じる現実よりも、ちいさな液晶の向こう側の世界が彼らの意識を占領している。
携帯電話は、この世をゆるやかに崩壊させるための、誰かの陰謀なんじゃないかと思うことがある。
「きっと、みなさんお疲れなんでしょうねえ」
「お疲れ、ですか?」
「ほら。社会に出ればいろんな摩擦があるもんじゃないですか」
人間関係とか、ノルマとか、納期とか、競合とか、義務とか体面とか。ほかにもイロイロ。アタシにはよくわかりませんけど。
嘘つき。ほんとうは何もかもわかってる顔で喜助さんはゆるり、唇を歪める。その顔がとても好き。
足元にひらひらと舞い降りた木の葉は、はかなげで。やっぱりきれいだ。喜助さんの髪の色みたいな、混じり気のない黄金色。
携帯のなかの虚構に囚われて、見逃してしまうのは惜しい、と思った。紅葉も、夕空も、隣にいる彼のやわらかい笑顔も。
「その摩擦で、きっとだんだん神経がすり減っていくんだと思うんスよ」
「すり減って、すり減りすぎてなくなっちゃうんですね」
「すり減りすぎてなくなって、ついには無神経になるんじゃないスか」
歩きすぎた靴の底みたいに、すり減って擦り減って、気付いたら穴があいているのかも。
その穴を埋めるため、ちいさな物体に執着する。
「それで、携帯依存症の人々の出来上がり」
「そんな感じっス」
くつくつと喜助さんは低く笑う。その低い響きが心地いい。
もうすぐ太陽が沈む。
行き交う人たちの顔が液晶のバックライトに照らされて、一様に青白く光っている。やっぱり、奇妙で寂しい光景。
また、喜助さんの指にきゅっと力がこもる。痛いくらいの圧迫感は、いっそ心地いい。
「携帯依存症、ですか」
背の高い彼が、立ち止まって私を見下ろす。表情は、これ以上ないくらいにやさしくゆるんでいる。
「表現、おかしいですか?」
「いいえ。全然」
たしかにみなさん、ある意味病的っスから。
でも…それなら、
世界のリアルを俯瞰せよアタシは、アナタ依存症ですけどねその不安そうな顔、堪らないっスよ――