左手の情景

 記憶はある。たぶん私のなかにぜんぶ残っている。
 頭のなかの引き出しは案外優秀だから、ふとしたときにするり、ひらいて、忘れかけていた過去が目の前に現れたりする。だけど、思い通りにそれを引きずり出そうとするのは、どうしたって無理なのだ。
 何か、と、何かが反応して、予想外に浮かび上がるもの。それが、私のなかにある、記憶。
 ずいぶん長い間、自分と付き合ってきたけれど、何と何がどう反応するのかは、この先も一生わからないままだろう。分かれば楽だけど、わかってしまえば面白くないし。このままでいい。

「なんや、また考えごとかいな」
「平子隊長」

 ひとりきりだった薄闇に、他人の声がすべりこむ。それを、嬉しいと思った。
 いま私のなかの何かが、平子隊長の声に反応している。予想できなかった反応。また、記憶のどこかが引っ掻かれたんだろうか。
 嬉しい。

「考えすぎは悪い癖やて言うたやろ」

 長い金髪を靡かせて、隊長が隣へ腰を降ろす。ふわり、いい香りが漂う。この人の匂い。
 悪い癖だと否定しているくせに、彼の頭のなかにはきっと、いま私の考えていることが全部つつぬけ。それは、彼にも同じことを考えた過去があるからなのだ、と思う。

「たいしたこと、考えてないですよ」
「そーか」
「ええ」

 嬉しいのは、ひとりきりの時間が終わったからじゃなくて、いまここにいるのが平子隊長だから、だ。

「たいしたことかどうか、決めるんはお前やないけどな…」

 低い声が、夜の闇に滲んで消える。
 隊舎内には生ぬるい風が通り過ぎる。夏の最後の名残。

「そう、かもしれないですね」
「かもしれへんちゃうねん、そうやねん。ボケ」
「そう ですか…」
「せや。俺が言うんやから間違いなわけないやろォ?」

 隊長の大きな掌が、くしゃくしゃと髪を乱す。
 別に、憂鬱だったわけでも沈んでいたわけでもないのに、ふっ、と気がぬけて、顔が綻ぶ。
 この人はほんとうに不思議な人だ。

「寝られへんのか」
「いえ。何となく夜風にあたりたくなっただけです」
「そーか」

 本当は、この人を待っていたのかもしれない。夜のなかで、この人を。だって、短い相槌ひとつで、こんなに心がゆるんでいる。くしゃり、頭を撫でられるだけで、こんなに心がふるえている。
 人間として生きていた日々も、こうして死神になってからもずっと、私はこの人を待っていた。

「どうせ寝えへんのやったら、ちょっと付き合うてんか」
「どこに」
「月夜の散歩っちゅうやっちゃ」

 ほな、行こか。差し出された掌をとって、夜露を含んだ芝に足を降ろす。
 抱き起こされた掌は、絡んだまま。あたたかい体温が、指先から染み込んでくる。
 どこからか舞い込む金木犀の香り、それに混じる隊長の匂い。こわいくらいに綺麗な月。視界の右側でゆれる金髪。
 この夜も私の記憶の引き出しへとしまわれるのならば、いつでも取り出せるように一番上に。

「どないしたん」
「いえ。いい月ですね」
「せやな」

 隊長の隣で、私はやっと息ができる気がした。



左手の情景

このまま朝までずーっと、一緒におったってもええで。
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2009.10.13
視線を交わらせてのふたり
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