ペシミストの逆襲

 きつく噛み締めたままのくちびるを流れる血の味。鉄臭い特有の味。くちびるに残る男の体温。突然放り込まれたこの状況が、よく分からなかった。

 ここはどこ、私はだれ、彼は。いったい何をしている?

 ここはたぶん彼の私室、私は死神で護廷隊の席官、彼は院生時代の同期吉良イヅル。目下組み敷かれ、見下ろされている。

 理由のわからないまま、唇を噛み締める。私の上で歪むきれいな顔、乱れた死覇装からのぞく白い肌。

「イヅル…」
「なに?」

 問いたいのは、私のほうだ。

「……これは、なに」

 ほの暗い彼の部屋。背中に感じるつめたい畳の感触。イヅルの顔が、少しずつすこしずつ近づく。かなしいくらいキレイな顔。
 いつもは髪に隠れた片目があらわになり、両方の瞳で見つめられる。うすく眇めた翡翠の目。それだけで、不覚にも心臓がとくん、跳ねる。

「最悪だな、何でそんな顔しているんだい?」

 滲む霊圧はいつもより刺々しい。たしかにイヅルなのに、顔付きが普段の彼とはまるで違う。

「そんな顔…って」
「愛おしい者を見るような顔で、僕を見ないでくれ」

 どんな顔、だろう。愛おしむような表情と言うならば、私よりも、いまのイヅルのほうがずっと。

「勘違いしてしまうじゃないか。それとも、されたいのかい」
「何のことだか、わからない」
「今の君の顔は、これから想いも寄せていない男に無理矢理犯される女の顔じゃない。って言ってるんだ」

 犯される。誰が誰に、だろう。私がイヅルに。無理矢理 犯 さ れ る。

「ちょっと、待って」
「もう待たないよ。散々待たされたんだ、何年も何年も白痴みたいに」

 ふたたび、乱暴に口を塞がれる。荒々しい口づけに、前歯がかちりとぶつかり合う。広がる血の味。

「待ってて、なんて…頼んでない」
「ああ、僕が勝手に待っただけだ。いつかきっと、と思いながら勝手にね」
「……イヅル」
「明らかに君は僕への態度だけ違ってた。三番隊舎にも頻繁に現れた。だから馬鹿みたいに可能性を信じたんだ」

 イヅルの自惚れは、正解だ。間違いなく、私は彼に会うためにそこを訪れていたんだから。

「待って待って待たされて、揚句にあっさり切り捨てられるのは御免だよ」

 いつになく饒舌なイヅルは、死にそうに顔を歪めて。それでも強い瞳で私を見据える。
 きゅうっと寄った眉間のしわ、いびつに弧を描くくちびる、つくりものみたいに透き通る瞳、形よい鼻。機嫌の悪いとき特有の低いひくい声が、お腹の底にひびいて、じわじわと力が抜ける。
 状況はけっして好ましいものではないのに、つい、うっとり見惚れた。

「何だよその顔は。まだ自分の立場が理解できないのかい?」
 君は思った以上に頭が悪いんだね、がっかりだよ。

「イヅルのほうが、ずっと」
「なんだよ、僕のほうが頭が悪いとでも言いたいの?」
「違う、そうじゃなくて」

 そんな顔、していない。これから無理矢理女を犯そうと思っている男の顔には、とても見えない。ということ。
 それよりもずっと愛おしげに、私を見ている。

 襲う男と襲われる女。それぞれの立場や状況に応じて、それにふさわしい態度や表情がある。というのならば、いまの私たちはふたりとも、まったくそれから外れている。
 襲う男と襲われる女には、ちっともふさわしくない。そうは見えない。

「どう、違うんだよ」
「イヅル……いいよ」

 顔の輪郭にかかる金髪を、そっと掻きあげる。イヅルの睫毛は、ちいさくふるえていた。

「なにが」
「おそわれても、いい。おそって」
「…馬鹿な、ことを」
「無理矢理じゃない。イヅルならいい、イヅルがいい」
「そうやって油断させるつもりなら、甘すぎるよ」

 指通りのいい、なめらかな金髪。ひとふさ指に絡めて、そっと口づける。

「さっきまで、泣きそうなほど嫌がっていたじゃないか。歯が唇を傷つけるまで、くいしばって」

 ふ、と力を抜いたイヅルが、細い指先でくちびるをたどる。ぬるり、血の感触。

「こんなに傷ついて」
「理由が、わからなかったから」
「いまだって、分からないはずだよ。もっと僕を怖がって、もっともっと怯えればいい」

 切れた下唇をそっと食みながら、紡がれる低い声。男にしては華奢なカラダだと思っていたのに、胸を押してもびくともしない。

「抵抗は無駄。逃がすつもりはないんだ」

 降り続くキスは、どこまでもやさしい。抱きしめる力は抜け出せないほどに強くて、なのにやっぱり、どうしようもなく優しいのだ。
 見上げた顔は、ひたすらに美しく歪んで、それを目にした瞬間、泣きたいほどにこの男が愛おしい、と思った。

「僕を、許さなくていいから」
「イヅルのバカ」
「バカでもいいよ。でも今夜は、今夜だけは君を僕のものにする」
 でないとまるで、死にながら生きてるみたいなんだ。

「…だから、バカだって」
「大丈夫。市丸隊長には言わないよ。僕も自分の命は惜しいからね」
 僕だけの胸の内に、想いも、思い出も、そっとしまっておく。

「ちょっと待って、イヅル。誤解」

 市丸隊長の名が出たところで、何かがおかしい、と思った。
 長い間友人としての距離を保ってきたのに、急に豹変したイヅル。不自然に持ち出された、隊長の名前。

「どうして、急に?」
「…婚約、するんだろ」
「誰が、誰と?」
「君が、市丸隊長と」
「誰に聞いたのそんな話」
「市丸隊長と京楽隊長に」

 瀞霊廷の遊び人ふたりだ。きっと他人の色恋沙汰を酒の肴に、とか。そういうことなんだろう。

「嘘、だよ。それ」
「へ?」
「うそ、嘘。完全なデマ。イヅル、騙されてる」
「なんで」
「さあ、賭けでもしてるんじゃない」
 それか、単純に面白がってるだけ。

「嵌められた、ってことか」

 だから急にこんなことをしたの?首筋にすがりついて囁けば、イヅルの耳が染まる。

「ごめん、本当に」
「謝らなくてもいいけど、イヅル案外根性すわってるんだね」
 婚約が事実だとして、バレたらきっと市丸隊長に殺されるよ。

「余裕なくて、夢中で。このまま君を失うのは死に値する痛みだ、と」
「情熱的。なんだ」
「蓋をあけたらただのバカだけど」

 頬を染めたまま苦悩するイヅルは、やっぱりキレイだ。

「でも、嬉しかった」
「…乱暴にして、ごめん」
「ううん、大丈夫」
「最低だな、僕は」
「そのぶん、これから優しくしてくれれば許す」

 そっと両頬を包まれて、啄むようなキス。額に、鼻の頭に、くちびるに。

「もちろん。君さえ嫌でなければ、いくらでも」

 イヅルの指がやわらかく髪を梳いている。気持ちいい。

「ところで……今夜だけでいいの?」
 私がイヅルのものになるのは。

 身体を預けたまま問いかけたら、骨が軋むほどにきつく、きつく掻き抱かれた。


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