帰っておいで

 尸魂界へ入る前から、ただひとつの霊圧を探り当てるためだけに神経をきりきりと研ぎ澄ました。戦いの最中に刀身をうすく削ぐようにするどく尖らすのンより、もっと切実な焦燥に駆られて。辿った、彼女を。
 掬いあげたそれが、ずっとずーっと昔の、体温も感情も押し殺したようなひんやりしたモンに変わったんにはすぐ気ィついた。その理由にも。気ィついてしもたら、母ちゃんの説教を恐がる子供みたァな気分になった。
 かと言うて意図的に逢瀬を避けたワケやないのに、不思議なほど彼女とは行き会わへんかった。それが彼女の意志のあらわれかと思たら、ますます近寄られへんなった。
 あほみたいな話やけど、怖ァて仕方なかってん。ちょっと前まで生死の鬩ぎ合うぎりぎりの所で戦っとったくせに、それよりもずっと怖いと思た。ゆるい表情の下で、こっそり怯えた。

 百年の不可抗力。
 距離も時間の隔たりも全部ぜんぶ不可抗力やった。あいつを野放しにしたまま、あいつのおるここに置き去りにすることしか俺にはできひんかった。心だけ置いて、はなれることしかできひんかった。聡い彼女になら、その裏の事情も俺の気持ちも理解できひんワケないて知っとるのに、怖かった。彼女が頭では理解したうえで、それでもほぐす前より固く閉じてしまわざるを得ェへんかった理由を思たら切なかった。
 一度失ったはずのモンに今にも手が届きそうな場所に立てば、再び決定的に失うんが恐ろしなった。瀞霊廷の一角でやっと彼女に行き会うたときには、当たり障りのない日常会話を繰り出すんがやっとなくらい、余裕も何もあれへんかった。

「えらい髪伸びてんなァ」

 百年は俺を臆病にした。顔を見れずに後ろから声をかけることしかできひん情けなさに、彼女が気づかへんかったらええ。じわじわと近づくひえた霊圧の芯に、まあるくてやさしいものを感じるンが気のせいじゃなかったらええ。

「最初 誰や分からへんかったわ」

 嘘や。姿形なんていくら変わってもすぐ判るほど彼女を知り尽くしとる。記憶が褪せることなど一度もなかったくせに。いっつもどこかで彼女を、彼女だけを欲しがっとったくせに。強がりがバレへんように、慎重に力を抜いて声をだす。口には出されへんたくさんの言葉を彼女が掬いあげてくれたらええと願いながら、喉の奥から今にもほとばしりそうな想いを堪えて、声を絞る。
 記憶のなかのモンよりちょっと細うなった背中に、視線を注いで立ち止まる。決して振りかえろうとせえへん背中が、溜め込みすぎた何かで震えとる。
 いまにもこわれそうにぶるぶると揺れつづけとる脆い背中を、ほんまは今すぐ抱きしめたりたい思た。怒りではなく、絶望にちかい、深いふかい哀しみの滲んだそれは俺の前で必死に姿勢をたもとうと張り詰めとった。

「ちょっと痩せたんちゃうか」

 そこには俺を責めるわずかな気配すらなくて、しゃーからこそ余計に掛ける言葉を失った。どんな台詞を並べたてたかて、救える気ィがしいひんかった。そんぐらい長い時間が二人の間に横たわっとった。ぷっつりと百年前に途切れたまま。

「どちらさま、ですか」

 彼女の問う硬い声に、数え切れへんほどの感情がぐちゃぐちゃに溶けこんどる。そのひびきにざらりと神経を撫でられて、くちびるを噛んだ。どんだけ、どんだけようさんのモンをいままで抑えつけて来たんやお前は。その胸の内側で、貼付けた笑顔に隠して、一体どんだけ。そう思たら、堪らんかった。そうさせたんが他ならぬ自分なんやと思たらなおさら。俺が――…

 目の前でさらり、長くなった髪が揺れた。見慣れへん長い髪を巻き上げた風は、あの頃とは違う香りを運ぶ。
 あの頃とは、ちがう。

「あらァ?新しい自隊の隊長さんに何言うてんねん」

 まるで昨日までも毎日くりかえしてきたみたァに問い掛けを躱したら、背中が拒絶する。拒んで見せるくせに、たどたどしく縋りつくような細い霊圧が、隠した真ん中からじんわりと染み出す。滲んだそれをまた隠すように肩が尖って、その先で袂からのびた細い手首がぷるぷると震えとる。

「………」
「もしもォーーし、聞こえたはりますかァ?」

 そないな姿を見せられて、俺に何ができんねん。ほんまは罵詈雑言を並べ立てられたほうがラクやった。責めようにも責めきれず、忘れることも憎むこともできひんとここに残された彼女の想いが、言葉にならへん想いをにじませた背中が、むねに迫る。強がり切れへんその背中に、いったい何ができんねん。いまにもばらばらにほどけて泣き崩れそうな彼女に、何が。
 でっかい目的があったから言うて、よくも今までこんな状態で放っておけたモンやな、俺も。大事な者をこないに追い詰めて。苦しめて。

「………」
「そろそろ、顔見せえ」

 しゃーけどな、お前のその顔みたら何もかも放り出してしまいとうなるて解っててん。そんぐらい俺は弱い人間やねん。殊に、お前のことになったらなァ。しゃーから今も、前に一歩進んでお前の顔見るのに怯えとる。振り向いた顔に浮かんでんのが、自分の期待とは全然違うモンかもしれへんて怯えとる。

「………」
「えらい嫌われたモンやなァ。しゃーないか」

 手の届きそうな距離で、手を伸ばすこともできんと、置き去りにされた迷子の餓鬼みたァに、な。

「………」
「まあ、ぼちぼち仲良ォしてや」

 もう百年も待ったんや、今さらばたばた焦ったかてしゃァないで。気長にいこ。
 心ンなかの呟きは、彼女への思い遣りと言うよりも、ほんまはただ己の恐怖心への言い訳にすぎひんかった。

「ほな、またな」

 彼女の横を追い抜いて通り過ぎる。羽織の裾が風をうけて翻る。擦れ合う布から伝わる霊圧が、ひときわぶるぶると震えた。隣にいてるんは彼女の幻影やなくて実体やと、そう思うだけでずっとずっと抑えつけてきた愛おしさが迫り上がる。
 百年も我慢できとったくせに、傍でみた横顔だけでもうダメやなんて、俺のなかのストッパーはどんだけ脆弱やねん。"気長にいこ"て、さっき言うたばっかりやんけ。むねを押し上げる衝動をもう一遍ぎりぎりと抑えつけて、後ろ手に手を振る。

 隊長格を示す長い白羽織は、強さの証や。心も体も強いモンの証。この白を汚さずに戦える自負もある、覚悟もある。しゃーのにこの背に刻まれた数字も、彼女の前では意味をなくしてまう。弱ァなる。
 会えへんかった間に腰までのびた長い髪。その髪に絡み付いて彼女の傍にあったたくさんのモンたち。そん中に自分は居てるんやろか。入る余地はまだあるんやろか。そんな餓鬼みたいな愚かしい欲で、いとも簡単に弱なってまう。

 ずいぶん遠くまではなれても、彼女の霊圧から意識を反らされへんかった。力が抜けてうずくまって、嗚咽をこぼしとる女を放っておかれへんかった。良くも悪くも彼女の背骨を支えとったのは自分なんやて、厚かましいけどそう思た。

 声を殺さず泣く女に、霊圧を殺してそっと寄り添う。あとからあとから溢れ出る涙が、俺への罵倒の代わりなんやと思た。百年以上溜まりにたまった俺への想いなんやと思た。それはあほみたいにぬくかった。嘘みたいに愛おしかった。愛おしゅうて、愛おしすぎて途方にくれた。
 ぽたり、ぽたり次々に床へと吸い込まれてゆく涙に、心ごと寄り添う。とまる気配はない。
 戦いの最中なら二重三重に攻撃を組み立てるんもたやすいっちゅうのに、彼女の前に立てば一個の策も出てけえへん。ただ黙って傍にいてることしかできひんかった。


 俺まで泣きそうになっててどないすんねん、あほか。そう、自分を叱咤した頃。顔を覆っていたてのひらの向こうから、そっと彼女があらわれた。
 泣き疲れてぬれた瞳がこっちをみとる。ずっと焦がれとったと告げるまなざし、そんなん見せられたら目頭が熱うなって、叫びだしそうやった。目ェ合うた瞬間に脊髄反射で叫ぶなんてどこの世界の変態やねん、落ち着け。落ち着け俺。必死で唱えながら、涙で頬に張り付いた髪を、ひとふさ指に絡めとる。

「何ちゅう顔してんねん」
「た…い……」

 嗄れた声に心臓が鳴いた。恥ずかしげに俯く顎をそっと掬えば、ふれた指が、はじめて女に触った少年か?てツッコミ入れなあかん位ふるえた。そこから彼女が流れ込んで、鬼道かなんかの特殊な術で視覚と聴覚と触覚を一遍にやられたような気分やった。腑抜けになりそうやと思た。
 声嗄れるまで泣くような、泣きすぎて目ェ腫らすような、そんな価値がいったい自分にはあるんやろか。彼女にそんなことをされる存在なんやろか。つまらん男やで。

「あほか」

 見上げる瞳が「なぜここに?」と問う。困惑のおくに、嬉しさが透けとった。赤く染まった目にじっと見据えられたら、頭んなかでほそくよられた神経がぱちぱちと音を立てた。

「そんなん 可愛い女の子が泣いてんのに、放っとかれへんやろ」

 軽口をきけば、目の前のきれいな瞳がまた氾濫する。「つまらない男でも、いなくなってしまったら、残された方はどうしようもないじゃないですか」と、頭のなかに声がひびく。どうしようもなかった、と。泣きぬれた瞳の圧倒的な破壊力をまえに衝動と理性とが勝手に争いをはじめる。

「許してくれなんて言わへん」

 とまることなく次から次へと頬を伝うしずくを拭う。ぬれたまつげを指先で辿る。湿った肌から染み込んでくる彼女が、内側から俺を押しあげる。むねのまんなかで抑えつけていたものが形を持って膨らんで、飛びだしそうにあばれよる。
 視線を交わらせたまま羽織に縋られれば、こっちがどうしようもあれへんなった。理性の楔なんて、切れるときは呆気ないもんや。余裕をなくした彼女の顔から眼ェ反らされへんかった。そのまま喰いつくしたい思た。

「しゃーけど、」

 目の前でじわじわとほどけてゆく彼女からは生きた霊圧が流れこむ。押し込めて沈めたおくの想いがゆるく身体を包みこむ。義骸やない、実体をもつ肌がざわざわと毛羽立つ感覚は久しぶりすぎて、制御がままならへん。

「もう一回最初っから狙うくらいは許してェや」

 ひとこと喋るたびに、あふれ出そうなこれは、百年も息を潜めて俺んなかにあったこれは、至近距離の彼女にふれれば、もう一時も我慢できひんと騒ぎたてる。早よ触れたァて、飽きるほど名を呼びたァて。呼ばれたくてしゃーないと、動悸がはねあがる。


「おかえり な…さい」

 喉の奥からやっと搾り出されたひとことを、どないに聞きたい思てたかわからへん。なにより聞きたかった。鼻の奥をつんと刺激する痛みをこらえて「ただいま」と笑たら、彼女の目ェに愛おしさがにじむ。
 焦がれすぎて痺れそうな腕をそっと細い背中にまわせば、力を込めるよりずっと早く抱きつかれた。
 そんなことひとつですべて許された気ィになって、力の加減すらうまくいかへん。感情の針が振り切れて、彼女をつぶしてしまうんちゃうかと案ずるほど強くつよく、ぎゅうぎゅうと掻き抱く。

 一音、一音、確かめながらゆっくりと彼女の名を綴って、かみ締める。腕のなかにある存在を。たしかにここにおる彼女を。くちびるで呼吸を奪えば、せつない顔とは裏腹の熱が俺のなかに入り込む。

「お前がウン言うまでいつまででもまとわりついたるつもりやってん」
「ばか」
「ばか言うな、あほか」

 鼻先を付き合わせたまま、互いの姿だけを映して。

「お帰りなさい、隊長」
「隊長て誰やねん。俺そんな名前ちゃうで」
「………」
「ほれ、早よ言え」
「………」
「忘れてもうたんか、切ないわ」

 わざとらしく泣き真似をすれば彼女が笑う。やっと笑いよった。百年ぶりの笑顔に感動しとったら、掠れた声が鼓膜を撫でる。

「おかえり……真子」
「遅なって、スマン」
「真子…」
「ん?」
「シン、ジ…」
「なんや」
「私、私は、ね」
「ああ」

「…っ 真子、真子、真子、シン ジ、シンジ」

 まるで、これまで無理矢理に押し殺していた感情が堰を切ったような声やった。擦れとるのに潤んだ声。あふれ出す自分の名に、血と骨の隙間を素手でやわらかく探られる。

「ここにいてるやろ」
「…シン ジ」

 呼びながら、ほそい指先が頬の輪郭を辿る。いっしょに胸の一番やわらかい部分を抉られる。にぶい傷みをともなうその感覚が、抑えていたモンを引きずりだす。ただならぬ衝動が、ぬるくゆるくうめいている。

「真子、」
「ただいま」

 もう一度そう告げて、じんわり咀嚼するように彼女の名を呼べば、抱きしめられて反対にくちびるを奪われた。食みながら「シンジ」と名を呼ぶくちびるに飲み込まれる。髪の毛に潜った彼女の指が後頭部をおさえつける。
 はじめての大胆な所作に身体ぜんたいが脈うって、呼吸も、心も、なにもかも全部、いっしょくたにもってゆかれて。

 目眩がしそうな幸福感のなか、アホほどキツう抱きしめたまま、その身体を攫った。そんな、ある日の午後。



っておいで
もう、絶対 はなしたれへんで。
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