あのこの棘のぶぶん
我に返ると、とんでもないことをしている、と思う。当たり前のように押し寄せる日々、についてだ。
「いっちごー」
「んだよ、啓吾。寝かしてくれ」
驚くほどに疲れている。冷たい水の底に沈む砂のように、比重に負けて身体は落ちてゆく。なのに反対に頭のなかは冴え渡るのだ。眠ろうとして、眠れるもんじゃない。そのことは、眠ろうとする前からわかっていた。
教室では、聞き慣れた教師の声、同級生のざわめき。グラウンドから聞こえてくる掛声、窓から入り込む風に秋の匂いが混じる。何の変哲もない日常がここにはある。
「散々休んでてやっと出てきたと思ったら、毎日居眠りかよ」
「疲れてんだ、わりぃ」
「疲れてる疲れてるって、お前いつも何してる訳?」
「黙れ、頼む」
いつもより低い声を出せば、やっと大人しくなった。もしかしたら水色が何か言ってくれたのかもしれない。啓吾の肩に、ヤツの手が乗っていた。わりいな水色、啓吾。心の中だけで詫びて、目を閉じる。目蓋の内側に浮かぶのは、いつも同じ顔。
彼女の、顔。
「じゃあ…気をつけて」
「おう、またな」
「また」
「お前はそこで、笑って待ってろ」
微笑む顔、なのに、いままで見た中で一番哀しい顔。
たいしたことも言えずに飛び出してきたけれど、落ち着いて考えれば考えるほどに頭がめちゃくちゃになる。彼女のあの顔の意味を、今さらになって噛みしめていた。
死神代行とごく普通の高校生との二重生活は、自覚している以上に俺の精神を蝕んでいるんだろうか。
なにが「またな」だよ。理由がなければ門は開かねえ、自由に会うことすら出来ねえじゃねえか。机に俯せたまま自嘲する。
「一護、寝てんのに眉間のシワすごいな…水色、見てみてアレ」
「ほっといてあげなよ」
ふたりの会話が、遠くに聞こえていた。
眠い。昨日も夜中に虚の襲撃を受けて、ほとんど寝ていない。こんな暮らしが始まってから、もうどれくらいだろうか。どんどんと、普通の暮らしから遠ざかっているのに、それを疑問に思う暇もなく、襲い掛かってくる非日常の波。
与えられた力に意味や理由があるのか、考えてもわからない。考えるより前に、やるべきことが次々に押し寄せる。そして、いつの間にか恋まで。
俺はバカなんじゃないだろうか、どこにそんな余裕が。そう思うのに、すでにしっかりと心のなかで根を張る想いからは、目がそらせなかった。
「まるで目の前の玩具が欲しくて駄々をこねる子供ダネ」
「うるせえ」
「手に入らないからと、拗ねるのはやめ給えヨ」
目を閉じた内側の彼女の表情。それと一緒に浮かんできたのは、涅マユリの言葉。
その通りだ。
死神として、自分の倍以上生きている女。同じ人間同士でも、他人の心を手に入れるのは難しいのだから、彼女が簡単に俺のものになるはずはない。
「好きに動いても構わんが、研究の邪魔だけはしないでくれるカネ」
「つうか、なんの研究だよ」
「君に言う必要はないヨ」
「気持ちわりぃな」
「一護くん、涅隊長になんて言葉を」
「構わんヨ。現世の青い坊やの台詞など痛くも痒くもないからネ」
人間と死神。異なる世界の魂魄同士が感情を交えた際の反応について分析できる貴重な機会なんだ。せいぜいイイ被験データをあげてくれ給え。特に君は人間の中でも例を見ない希少種、死神代行なんだから。全てが貴重な研究資料なのだ。
「わけ分かんねえな」
「分からなくてもいいのダヨ」
「でも、気味わりぃじゃねえか」
俺と彼女がふたりになるといつも、ぎりぎりまで霊圧を抑えた涅マユリの姿が近くにある。
隊長ってのはそんなに暇なのか。と問えば、あの方は特別ですからと彼女は笑った。穏やかで、なにもかもを受け入れるような微笑み。いま、瞼の内側に浮かんでいる表情よりも、ずっと眩しくてやわらかい顔。
「俺にはただの変態オヤジにしか見えねえけど」
「確かに、天才と何とかは紙一重…」
「君たち、しっかり聞こえているんダガネ」
「勝手に会話盗み聞きすんなっつの」
「実験データの採取をしているだけダヨ。私は地獄耳だから気をつけ給え」
「ったく、うっとうしいな」
「ふたりきりになりたいのカネ?」
「あたりめえじゃねえか」
「何故?どういう理由だ、詳しく教えてほしいんダガ」
「は?」
ふたりきりになりたい理由。あらためて問われると、言葉にするのは難しかった。
独り占めにしたい、手に入れたい。触れたい、抱きしめたい、俺だけを見ていてほしい。叶うはずのない願いばかりが、奥から沸き上がる。その理由なんて意識する前から、次々と。
「言える訳ねえだろ」
「恥ずかしがらなくてもいいのだヨ」
「恥ずかしいわ、ボケ!」
「一護くん、言葉使いが…」
「うっせえ、お前は黙ってろ」
「でも」
「俺はここの人間じゃねえし、隊長がどんなに偉くても関係ねぇ」
自分の言葉が、意味合いを変えて心に突き刺さった。抜けない棘のように、ずぶずぶと。深く、心を刔る。
俺は ここの人間じゃ ない。
長く生きているほうが偉いとは思わないし、見た目ではどう見積もっても彼女はせいぜい同い年。下手をすれば年下にみえる。
でも、経験値の差にはさからえないものだ、とも思う。いま俺がほうり込まれている非日常、こんな世界に彼女はもう、何年も何年も生きているのだ。敵うわけがない。
「なんだい少年、私に見られては恥ずかしい事でもしようと思っているのカネ?」
「ちげーよ、変態」
「おかしいねェ?」
「なにが」
「君の魄動の波形はたしかに性的欲望を抱いた者特有の乱れを見せているんダガネ」
「なっ!バ……」
「それはそうと、そろそろ時間らしいヨ。穿界門がひらく」
次はいつ会えるのかもわからない。約束を交わすことも許されない。そんななかで、俺が何を言えるだろう。何を出来ただろう。
笑って待ってろ。曖昧な言葉ひとつ残して、立ち去ることしか出来なかった。
教室のざわめきが、にわかに音量をあげる。窓から入り込む冷たい風。
閉じた瞼の内側には、相変わらず彼女の悲しげな微笑み。なにもかもを諦めたような、優しい、儚い微笑み。
「一護……授業、終わったよ」
水色の声で顔をあげれば、不安げに俺を見下ろすみんなの顔があった。
「お昼、どうする?」
「購買行くけど、なんか買って来ようかァ?メロンパン?焼きそばパン?」
「適当に……俺、屋上行ってるわ」
「あ…一護っ!?」
「行こう。浅野さん」
「その呼び方やめてェェェ、水色ォ」
お馴染みの水色と啓吾のやり取りを聞きながら、立ち上がる。
「黒崎」
「んだよ、石田」
「感じないか?」
「……なにを?」
「この霊圧……」
「虚か?」
「そうじゃなくて」
空気が振動するような微かな霊圧。まさか、いまここで感じるとは思ってもみなかったそれ。
走って、走って、走って。
重たい鉄扉をあけた向こう側、屋上に見えたのは、会いたかった彼女の姿。会いたくて会いたくて堪らなかった彼女が、そこに、いた。
「一護くん」
「なにも言うな」
「でも……あの」
「黙って、」
「…………」
「黙って抱きしめさせてくれ」
やわらかくて細い、彼女の身体。はじめて腕に捉えた身体は、想像していたよりもずっと華奢で。すこし力の加減を間違えれば、壊してしまいそうだった。
死霸装の合わせ目から見える白い肌、鎖骨、結われた髪のせいであらわなうなじ。匂い立つ甘い香り。なにもかもが、たまらない。
「本物だよ」
「ああ」
「現世で任務を命じられて」
さっきまでぐるぐる考えていたことも、こうして彼女を腕に収めてしまえば、全部どこかへ飛んでゆく。五感の全てが、彼女の存在を拾いあげ、記憶しようとフル稼動している。
「一護く……くるし」
「わりぃ、加減できそうにねえ」
「……で、も」
「入口は石田が鍵かけて見張ってる」
誰も来ねえよ。
物を言いたげなくちびるをそっと塞ぐ。染み込んでくる体温。溶けそうにやわらかい唇の感触。彼女はここで、俺と同じように生きている。それだけで、充分じゃねえか。
「誰かくるとか、」
貪る。はじめて合わせた他人のくちびるを、貪る。必死で。曖昧な言葉よりもっと、伝えたかったこと。
「そういうことじゃ、なくて」
「なんだよ」
「………っ」
「いいから、黙って俺だけ見てろ」
啄んで、軽くかんで。重ねて、やさしく吸って。また啄んで。指を絡め、見つめあい、何度もなんどもくちびるを重ねる。
どれくらい時間が過ぎたんだろう。くらくらしそうにのぼせた頭。俺も、彼女も、すっかり息が上がっていた。
「あそこ……見て」
「は?」
彼女がかすれた言葉を漏らす。切れ切れの色っぽい声に、もう一度くちびるを重ねて。弱々しく指差した先へ視線を移す。
ゆっくりと、開けた視界。
いつ見ても趣味のわりぃ格好をした十二番隊隊長の姿。
涅 マ ユ リ ――
「黒崎一護。実にいい反応を見せてくれたネ」
「なんでお前が、ここに」
つうか、いままでの全部聞かれてたし見られてたのかよ。最悪。
「突然出会えた時の感情データを取りたくてネェ」
「……っ!」
「わざわざ連れてきてやったんダヨ。感謝し給え」
あのこの棘のぶぶん(知ってたのか?)(聞く耳持たずにがっつくから、言えなくて)(まじかよ……)