レプリカ
「あー…やべ、俺マジで死ぬかも」
ふたりきりの執務室で修兵の漏らした台詞は、よこしまな意図を見透かすようにわざとらしく響いた。
なんてこともないただの一日。普段と違うのは俺が風邪気味なことくらいで、執務室に流れる空気にはいつも通り色気のかけらもない。
俺のほうは視線にも声にもうっとうしいほどの愛情をたっぷり込めまくっているつもりなのだが、彼女には全然それが伝わらないのだ。
「へえー……大変ね」
「へぇって、それだけ?」
「他になにか」
カタチの良い唇をほんのかすかに歪めて、短い台詞。ホントこのオンナはどこまで鈍いんだろう。こうしていつも執務中ふたりきりなのは、俺が様々な副隊長特権を駆使しまくって、やっとのことで実現させている状態だ、ということにも彼女は全く気付いていないにちがいない。まあ、別に良いけど。
「いや、かも…じゃなくて死ぬわ本気で。このままだと」
気を引くために多少大袈裟を装っているのは確かだが、実際に死ぬんじゃねえかの一歩手前くらい苦しい。間違いなく熱がある。
俺はいつでも、どこでも、どんな時だって彼女の気を引くことに全力を注ぐ男なのだ。だから死にそうな苦しさだって、利用出来るモンなら利用してやる。
「顔、赤いみたいですね」
なのに長い睫毛を数度揺らして、この冷めた台詞。彼女はなかなか上手く釣られてくれない。いったい何がわるいんだろう。乱菊さんのアドバイス通り、無駄に低い声で喋ってるし、眉間のシワだって檜佐木デフォルトになるくらい欠かしていないのに。
しかも今日の声は熱のせいでいつもよりイイ感じに掠れている。ハスキーボイスな俺、けっこうイケてんじゃねえの?眉間のシワはわざとじゃなくてかなりくっきり深いはずだし。その分、体調はぐだぐだだけど。
「でしょ?たぶん熱あると思うんすよ……ちょっと 額触って、計ってみてくんねえかなァ……とか、思ったり」
「……は?」
あ。またそんな感情皆無な反応。つか、最近ではつめたい言葉と視線であしらわれんのも悪くねぇよな、むしろ快感かも。なんていう変な方向のアンテナが開発されそうになってたりする、どこまでも順応性が高くて影響を受けやすい俺。
これってさっさと二枚目口説き路線に見切りを付けて、『貴女好みの色に染まりまくっちゃいます年下男子』路線に切り替えたほうがイイんじゃね?光源氏と若紫的な究極の愛のカタチが俺たちには似合いなんじゃね?
「……出来ればこう、額同士をこつんと合わせて『お熱がありますねぇ、修チャン』とか…言ってもらえたら、俺本気で 即行 死ねる、かも」
「じゃ、死ねよバカ」
あれ…息が切れる。世界が揺れている。目の前も足元もぐらぐらして、頭ン中も靄がかかったみたいにぼんやりして。
最後の方は自分でなに喋ってるかわからなかった上に、なんか不穏な耳鳴りが聞こえた気がする。死ねよバカとかなんとかって彼女の声が聞こえた気がするんですが、俺の気のせいでしょうか。
「そんだけ喋れるなら、全然大丈夫みたいね。黙って仕事!」
「え……鬼」
「なにか?」
全くよこしまな気持ちの隠せていないゆるんだ顔で、はあはあと苦しげな息を吐く、九番隊副隊長 檜佐木修兵。
その彼の本気混じりのざれ言を気持ちいいほどさらりと切り返したのは、同隊三席の女王様。ヤワな男じゃなにもかも敵わないと噂された、文武両道かつ容姿端麗な九番隊の一輪花。修兵の霊術院時代の先輩死神だ。
「マジでハンパねぇんすよ、なんか天井 ぐるぐる回ってる」
「檜佐木副隊長」
「……はい」
「体調管理も副隊長の務めのうち、ですよね?」
「………はい」
「だったら文句言わずに仕事するか、部屋に帰って寝てるか、どっちかにしてください」
「…………はい」
歳上女の敬語に、俺は滅法弱い。強気な彼女を表面だけは征服できた気がするから。立場はたしかに俺が副隊長で彼女は三席なのだから、敬語でも全くおかしくないのだけれど。
「どちらになさるんですか?」
「し、仕事…しようかな」
「じゃ、さっさと筆を握って」
「………あのー」
「なんですか?」
「おでこコツンは」
「するかアホ」
憎たらしい言葉しか吐かないくせに、やけに艶っぽい口唇も愛おしくて堪らない。目が反らせない。敬語より、やっぱり彼女にはコレだよな。
「ごめんなさ…」
「調子にのるな!」
厳しい声とは裏腹に、白い手の平が近付く。ひんやり冷たい彼女の肌の感触が心地イイ。この分だと相当熱があるのかも。
「熱っ!」
「やっぱ熱あんでしょ?俺…嘘は、ついて ねぇ……って」
「嘘とかそういうレベルじゃないからこの熱」
「…あ、……はは」
「笑い事でもない!」
「わり……でも、俺」
喋っている途中で身体中から力が抜けて。握っていた筆が指先から離れ、ころころと転がる軌跡のままに書類を無残に汚す。
ああ、一からやり直しだ。この書類仕上げるのけっこう面倒臭かったのに。頭の片隅で思いながら視界がぐらぐらと揺れて、抵抗できない。
「ちょ、檜佐木副隊長…」
「…………」
重力に身を任せ全身から力をぬいた瞬間、ぽすん。柔らかいものに包まれた気がしたけど、もう何がなんだかよく分からなかった。
なにこのふもふも感って。めちゃくちゃやわらけぇな、天国?俺マジで死んじゃったんだろうか。死ぬのがこんなに気持ちイイものなら、ずっと死んでたいかも。
でもちょっと待て。死んだら彼女ともっと死ぬほど気持ちいいこと出来ないワケだし、それはちょっと勿体ないか。心残りが多過ぎてまだ死ねない。
「…っ!修兵?」
あれ、名前呼び捨てにしてもらうのってすげえ久しぶり。院生の頃以来だから何年経ったんだろう、めちゃくちゃ嬉しい。嬉しいのに、もう反応することも出来ずに、ずるずると深い深いところに飲み込まれていく。
「修兵のバカ!」
沈む、ずぶずぶ。彼女の少し慌てた声を遠くに聞きながら、意識が薄れた。
◆
胸に顔を埋めたまま意識を失った修兵は、まるで子供のように無邪気な表情をしている。
いつもいつもバカの一つ覚えみたいにエロい視線を送ってエロい声を出して、気を惹こうとばかりしているこの男のことを、私だって嫌いな訳じゃない。むしろ次はどんなアホの子っぷりを見せてくれるんだろうと、ある意味楽しみにしている所もあるくらいだ。
「……も、ダ… メ」
「はいはい」
修兵がホントに私を想っていることも、子供じみた我が儘を通すために色々と無理をして、執務室にふたりきりの状態を作っていることももちろん知っている。ただ気付かないふりをしているだけ。
まるで振り上げた鎚の着地地点を失ったように、あたふたしている彼は本当に可愛くて、観察するのが面白いから。
「…せん、ぱい」
「ん?」
「いい………ニオイ」
たぶんその感覚は、可愛い子ほど虐めたい心理に似ているのかも。
縋り付く彼の見た目よりがっしりした胸板に、不覚にもドキドキと心臓が騒いでいる。
「もっと、」
「もっと何?修兵」
「気持ちよく…なりたい」
「………」
小さな声を聞き取ろうと顔を近付けたせいで、ダイレクトに腰に響く声が滑り込む。耳たぶにまともにかかる息で、距離の近さを実感したら、声も出せなくなった。
「気持ち良くなれるまで、」
「………」
「俺、死ねない」
半分意識失いかけてても、エロですか。というか耳元でそんな台詞連発するのは勘弁してほしいんだけど。公然猥褻罪で訴えるぞ、この野郎。
口からこぼれる軽薄な台詞は、苦しげな声のせいで真実味を増して聞こえる。目の前に迫る首筋のラインが、やたら色っぽい。まともにしてればモテるタイプなのに。
「ホントに――バカな子」
運んだ自室で、はあはあと苦しげな息を漏らす修兵を見ながら、私はそっとため息をついた。
◆
目覚めたら知らない天井が目に入った。いい匂いのする布団、額に乗せられた濡れタオル。四番隊でもなさそうだ。俺はさっきまで、どこで何をしていたんだろう。
たしか執務室に彼女とふたりきりでいて、俺は熱があって、どうしようもないほど身体が熱くてあつくて。筆落として書類を汚してそれから、ぷつりと記憶が途切れている。
「目、覚めた?」
「……先輩、ここ」
「私の部屋」
意識をなくす直前に包まれた、どうしようもなく柔らかいものは一体なんだったんだろう。目眩がしそうにやわらかいアレは…って、実際俺は目眩がしてたんだけど。
「俺…」
「倒れたの、執務室で。いきなり私の胸に」
「むね?」
「しがみついて全然離れないから、」
仕方なくここに連れてきた。と言いながら、彼女の手が首筋に触れる。ひやり、気持ちいい。「ん、だいぶ下がった」俯いた彼女の胸元から女神の谷間が覗いている。なんか鼻血出そう。
つうか、マジかよ全く記憶にねえんだけど。胸にしがみついた…って、くそ!勿体ねえ。感触覚えてねえからもう一回とか言っても無理だよな、そらそうだよな。
「なんで四番隊じゃなくてここなんすか?」
「ご不満?」
「いや、大満足っすけど」
「じゃあ良いじゃない」
「でも……」
「理由が知りたい?」
「まあ。いつもあんなに避けられてあしらわれて蔑まれて相手にもしてくれないのに何故かなって」
「…逆もまた真なり、ってとこかな」
やわらかく微笑んだ彼女の顔の裏に、なにがあるのかと探る。
「好きな子ほど虐めたくなる、とか、そういうことすか」
「…うーん。ま、それでもいいか」
「違うんすか?」
「欲望とは逆に逆に流れてしまうというか。ダメだと抑制しようとするたび、逆に箍が外れてしまうというか。そういう感じ」
「俺は……裏の裏をかかれてたっつうことっすか?」
「逆説は侮れない。男と女ってのは本当によく出来てるよね」
なんか全然わかんねえ。分かんねえけど、少なくとも俺は彼女に嫌われてはいないらしい。
「ワケ分かんねえけど、」
「修兵はやっぱりおバカなままだね」
「………」
「意識失ってるときにも、気持ち良くなるまで死ねないとか言うし」
そして、彼女は俺よりもずっとずっとやり手らしい。下手に弄した策はたぶん簡単に見破られるだろう。いつも何重にも仮面を被っている彼女の、本心はなかなか見抜けない。
「なんすかソレ?」
「さあね。だからバカなんじゃないって言ってるの」
だったら、いっそのことこの熱の勢いを借りて、直球で勝負するのもアリかも。
「バカでもなんでもいいから、とりあえず」
「…ん?」
「記憶の回復に協力してもらえねえっすか」
「なにそれ」
アリとか無しとかもう関係ない。間違いなく俺は、彼女と死ぬほど気持ちいいことがしたいし、しないと死ねないってのも本心だし。なにより今の彼女の態度は、既に俺を受け入れているから。
「もっかい触らせて」
言いながら彼女のほうへ、そっと手を伸ばした。
レプリカ偽物の皮を何枚も何枚も剥いだら、本物が出て来るかもしれないと思った。