唐紅(からくれない)
ほんまに目ェ離されへん子ォやなと思たんは、もう何年も何年も前のこと。
彼女はいつかの自分によく似ていたから、とすっぴんの寝顔を見つめながら平子は思う。
果てしない海にたった一人で漕ぎ出して、途方に暮れる少女。それが怖くて大船に乗ったつもりで人の集まる場所に身を置けば、なおさら深まる孤独感。この大きな船ごと、すべてが一緒に沈んでしまうような言い知れぬ恐怖。
そんなものを背負って、澄んだ瞳はかすかにゆらゆらと揺れていた。
「…おはよう、ございます。隊長」
「おはようさん」
でも彼女の一番底にあるのは、自分たちが一体どこへ向かっているのかわからない、目的地の見えない不安、なのだと思う。あの頃の俺とおんなじで。
「腕、痺れてませんか」
「おう。全然やで」
それは多分、死ぬまで生きても一生答えの見えない類の不安。いくら考えても納得できる答えを導けない種類の不安。
――自分はどこから来て、そして、どこへ行くのか。
古今東西あらゆる知者や賢者たちが解き明かそうと試みて、それでもいまだに解けない、永遠の命題だ。
その答えのひとつとして捻り出されたのが「神」の存在だとするならば、人の世を終えて「死神」となった俺たちにも不安が付き纏うのはなぜだろう。仮にも「神」と呼ばれる存在なのに。
「それに俺、この姿勢がめっちゃ好きやねん」
一晩中同じ姿勢を保ったままの腕は、本当は微かに感覚をなくしているのだけれど、そこにかかる頭の重みが幸せで。ずっとこうして彼女に腕枕をしていられたら、と思う。
「なぜ?」
「お前の顔、近くで見れるからに決まっとるやんけ」
至近距離で染まる頬にそっと指を這わせれば、長い睫毛がふるえた。
遠いとおい先のことにいくら不安を感じていても、いなくても、きっと誰にも等しく終わりの時は訪れる。だったら答えの出ない問いに翻弄されるよりも、目の前にあることを大事にすればいい、というのが、いまの俺に言えること。
「なんや、照れてもた?」
「……っ」
口ごもり慌てる姿は、可愛くて仕方ない。どこか遠くを見つめ考えこんでいるときの、この世のすべてに絶望しているかのような寂しげな色は、すっかりなりを潜めている。
「そうかァ。照れてんねや」
「普通は照れますよ」
「せやけど自分、普通ちゃうやん」
「どういう意味ですか!」
「そのまんまですけどォー」
じゃれあうように会話をしながら、本当は染まる前の頬が青白かったことが気になっていた。いつも白すぎる肌は、寝不足になると青味を増して見えるのだ。
何度"考えても無駄や"と言い聞かせても、"気にするな"と言っても、己が納得しないことには走り出した思考は止められない。昨夜も彼女は眠れずに、同じことを繰り返し考えていたんだろうか。
(しゃーから言うたのに)
正体の見えないものに心が蝕まれていく、徐々に自分の芯を食い尽くして弱らせる。その不安感には俺にも身に覚えがありすぎた。逃れようとして逃れられるモンではない、ということも。
「平子隊長…」
「ん?」
その聞き分けのなさがとても哀しくて、同時にひどく愛おしいと思った。
少なくとも俺は、まったく疑問を抱かない女よりも彼女みたいな女のほうが好きだ。好きだからこそ苦しんでほしくはないし、苦しんでいる姿がなおさら愛おしい。
少しでも自分がその苦しみを軽くしてあげられたら、と願わずにはいられない。
「ありがとうございます」
「なんやねん、急に」
そんな俺の気持ちを彼女はちゃんと汲み取っていて、それでもなお、まだそこから抜け出せずにいるらしい。
「なんとなく?」
「なんでソコ、疑問形やねんな」
「なんで…だろう」
「俺が聞いとんねん!ボケ」
二人で顔を見合わせて、ほんの少しだけ笑う。額をこつんと小突いたら、つんと尖る唇。
そんな口されたら、まるでキスしてくれってねだられてる気ィするやんけ。
やわらいだ彼女の表情を見ていると、ラクにしてあげたいと思っていたのは俺のはずなのに、自分のほうが癒されているように思えた。
「ありがとう、ございます」
「………おう」
「感謝…してます」
「分かっとる」
「ホントに…」
俺の袂をぎゅっと掴む手の平に指を重ねる。眇めた瞳にじっと見つめられて、自然に指先を絡めた。
「もう、ええて」
「すみません」
「ったく、ほんまにお前は」
ぐっと半身を起こして、上から顔を覗き込む。寝起きの潤んだ瞳がぱしぱしと瞬きを繰り返す。
「悪いと思てんのなら、身体で示してもらおか」
「……!」
今度はぱくぱくと空気を食べる仕草に、つい咽喉の奥から笑いが漏れた。
「冗談や、ジョーダン」
「隊長っ」
「お前の反応がおもろいから、からかいたァなんねん」
本当は面白いからというより、からかった時の反応がどうしようもなく可愛いからというのが理由なのだけれど、わざわざそんなことは言ってやらない。
ニヤリ、口角を釣り上げて、じっと目を見据える。
「ま、半分は本気やけどな」
ふたたび染まった頬にそっと一度だけ口づけて、細い身体を抱きしめた。
「…重たいです、隊長」
「黙って、感じてみィ」
心臓はどくん、どくん、と鳴り続ける。何人も何人も抱いて来た、彼女のことだってもう何遍も抱いてるのに、毎回触れるたびに緊張で胸が痛くなる。
「鼓動、早いやろ?」
「はい。でも…私も」
「せやな。ちゃんと心臓動いとるわ」
「生きてますから」
止められないものは止められないし、時間は寝ても覚めても周り続ける。泣いても笑っても朝は来るし、心臓は止まるその日まで動き続ける。
「俺と自分と、どっちのンが早いやろなァ」
抱きしめる腕にぎゅうっと力をこめれば、長い髪を潜って彼女の腕が首筋に縋り付く。
「きっと私です」
「いや、俺やで」
「そんなことないですよ」
「ちゃうって。俺のンが早い」
「じゃあ聞かないでください」
「なんや冷たい言い方やなァ」
「隊長が意地っ張りだからです」
「アホか!自分に言われたないわ」
人間のときも死神になった今も、同じように流れる血は赤い。赤はいつまでも赤いまま、その鮮やかさが褪せることはないのだ。
生きることからは逃げられないし、逃げたところでそれで終わりが来るという保証はどこにもない。
実際に俺たちは、人間やっと終わった思たら、今度はこうして死神としての生を生きとるワケやしなァ。いつまで経っても果てなんか来ぃひんかもしらん、一瞬先は果てかもしらん。
「まあ、そんなんどっちでもええねんけどな」
「そう…ですね」
所詮この世はどうしようもあれへんことばっかりや。せやったら、どれだけ楽しく生きれるんかに力注ぐのもアリなんちゃうの?
外からは夜明けを告げる鳥の囀りがやさしく聞こえる。執務開始まであと数時間、とりあえず今日は今ン所普通の一日らしい。
彼女の細い指が、俺の金髪を一束掬い上げる。そっと口づける仕草からは、不安の陰が薄れていた。
「やっと身体で詫びる覚悟出来たっちゅうことやな?」
「は?え……ちょ!?」
「なんや、ちゃうの?」
「ち、が………」
力の抜けた身体をもう一度ぎゅっと抱きしめて、物言いたげな口唇を乱暴に塞ぐ。初めてキスした思春期のガキみたいに心臓は暴れ出す。
「言い訳は聞けへんで」
「たい、ちょ…」
「黙っとき」
だってもうお前の目は俺しか映していないから。待ち侘びるように肩がふるえている。
お前の不安も恐怖も身体も心も何もかもひっくるめて、いますぐ受け止めたりたいと思てん。抱きしめて溶けはじめたお前の不安が、繋がった部分から少しずつ俺に流れ込んで、一緒に揺れながら消えてしまえばええ、って。
「仕事が、」
「まだまだ時間にはたっぷり余裕あるやんけ」
「でも」
「俺に抱かれンのは嫌なん?」
「……いえ」
「せやったら黙っとけ、ボケ」
ほんまは、俺がお前に触れたい気持ちを抑えられへんかっただけなんやけど。
我が儘は堪忍な。
唐紅(からくれない)せめて今この一瞬は、俺のことだけ考えててくれや。- - - - - - - - - -
2010.01.06
視線を交わらせて 左手の情景 空虚の合唱のふたり