どことなく原罪
――ヒトは好きなものを手に取るとは限らない。好きな相手にはまるとも限らない。
なあ、知っとった?この世はなんもかも矛盾だらけなんよ。せやから期待なんかしたらアカンねんで。無防備な女の寝顔を見つめながら、市丸は独り言を呟く。
彼女の白い肌に付着した残滓を拭い取り、やわらかい絹糸のような髪を愛おしげに数回撫で付けて。
「退屈でしゃーない毎日は、死ぬまで終わらへん思てたのに」
ぱさり、隊首羽織を彼女にかけながら、深いため息をひとつ。月の見える窓辺へ向かう背中には、切なさが滲んでいた。
ただの暇潰しがそうじゃなくなる瞬間はあんまり突然すぎて、ボク何の準備も出来ひんくて。自分が涙流してたことすら気ぃ付かへんかってんけど、あれ何やってんやろ。
ただ、雫を掬う彼女の指を呆然と追いかけた。その感触の心地良さを追いかけるだけだった。
かすかに残るこの感覚は、敗北感?それとも――…
◆
ボクが期待することをやめたのは、もう随分前だ。期待通りの物を与えられた記憶はこれまでに一度もないし、きっとこれからもないだろう。
それでも、少し位は楽しめることが何処かにあるんじゃないかと、つい探し求めてしまう癖は自分で省みても愚かしい。期待するのをやめたつもりで、結局はまだ期待しているということだから。
「ボク、自分で思てるより諦め悪いんかもしらんねェ」
人間だった時のことは記憶の彼方に沈んでしまったけれど、まったく浮上してこない所を見ればたいして良い思い出なんてなかったに違いない。小さい頃に命落としたいうんはあんまり日ごろの行いはようなかってんやろな。
尸魂界に来てからも、始終腹を空かせて退屈しとった記憶しかない。生きるのは全然楽しゅうないし。
「ほんまに、いつ死んでもええ思てんのにお腹だけは空くやなんて。アホみたいや」
少しは楽しめるかと死神を目指してみれば、始開も卍解も席官入りもあっさり実現してしもて。神童や逸材や言われるのが不思議でしゃーなかった。
隊長の職務も思てたよりずっとラクやし、四六時中サボって散歩しててもこなせてまう。どうせ時間余るからサボってるだけやのに、イヅルはやたら煩いんやけど。
「あの苦悩の表情見れるんはちょこっと楽しいから、それもええかな」
虚を倒す言うたかて手応えもほとんどない。一瞬。あの神鎗が肉を引き裂く一瞬だけは結構好きやった。でも、たった一瞬。
「ほんまに目ェ瞑ってても出来ることばっかりや」
退屈で退屈で一時の快楽求めて女抱いたかて反応は大抵おんなし、感じる気持ち良さもたいして変わらへん。
たまにはちょっと苦戦してみよ思て高嶺の花に手ェ出してみても、呆気なく折れられるのがオチ。口説く過程を楽しむ前に自分のモンになってまう。
花街の馴染みの女ンとこ通ても、お酒飲んでても、吐きそうな空虚感は消えへんし、何のために生きてるんかも分からへん。
「ボク、なして此処におるんやろ」
もっと面白いこと、どっかにあれへんかな――そう思っていた頃に彼女を見付けた。
◆
愛やら幸せやら、掴み所のないあやふやなモンに興味なんてなかった。ボクにあんのは、他者を意のままに操りたいと思う支配欲。この世のすべてへの嫌悪感、他者を破壊したいという欲望、絶望的なまでの飢餓感。
「キミにしか頼まれへんことあんねん。今日ちょっと残ってて」
「…?はい」
「おおきに」
他者を抑えつけ、絶えず挫折感を味わわせることで他者を繋ぎ留めようとする。幸いにも神様はボクに他者を引き付ける餌を与えてくれはったから、ボクはそれを上手いこと活用したらええだけやった。
女なんてみーんなおんなしや。ちょこっと優しぃしたって甘い言葉のひとつも囁けば、コロッと落ちてまう。
「市丸隊長、私はなにをすれば…」
「そんなんボクに聞かんでも分かるやろ」
今度のターゲットはキミ。ただのゲームやから、あんまり本気にならんとってな。何度もなんども繰り返してきた、ちょっとした暇潰し。そう思って始めたこと。
――ガチャリ。
二人きりの隊首室、後ろ手に鍵を下ろす。あとに起こることが何か、彼女には分かっていたはずだ。なのに逃げるそぶりを欠片も見せない部下を見つめ、ボクはニヤリと笑う。
予想は外れてへんみたいや。つまらん毎日のなかで身についたんは、つまらん嗅覚。他人の欲望をかぎ分けるという、哀しい能力。世の中には傷付きたがってる者がなんて仰山いてんのやろ。
「せやけど、キミはボクのこと嫌いなんやで」
口角を釣り上げたまま、一歩、また一歩、彼女の方へ近づく。いつもよりずっと低い声を出したんは、せめてものサービスみたいなモンや。
「"嫌い"って言われへんくらい、嫌いなんや」
わざと困惑させよなんて思てない。だってその前にキミは既にボクを見てたやないの。"本当のキミ"は、キミが思うほど品行方正やないねん。残念やけど。ボクの笑顔の裏を覗きたあてしゃーないんやろ。ちゃあんと知ってる。だから選んだんや。
「ボクは誰よりもキミが好きやのに」
殺したってもええくらい、な――…
嘘やないよ。キミがボクの退屈を解消してくれるんなら、ほんまにその瞬間は誰より好きになる。
嘘や、ない。抵抗を止めた人形のようなキミからは表情も感情も消えていて、笑顔には違いないのに少しも笑っていない。いつもそうやった。だから目ェ離されへんかった。無表情の奥で叫んでるように見えてん。
窓から見える月が、薄暗い室内を照らす。陶器のようになめらかな肌が月光を浴びてなおさらキレイだ。
ボク、どっかでこんな顔みたことある気ィする。なんてかなしいんやろ、なんて――…
「…隊長は、面白いです」
「ボク おもろいタイプとはちゃう、思ててんけど」
「私の、知らないことを見せてくださいますから」
見たことのない、世界。真っ暗で深い、ふかい、闇――
「もっと見せたろか」
手を差し出せば、当然のように手の平が預けられる。するり、彼女を引き寄せる。
ええ子やね。せやけど、ほんまはキミそんな素直やないて知ってるよ。逃れよう思てんのに、ボクの指を振りほどくことが出来ひんねやろ?それ、キミの隠れた意志やねんで、きっと。
「いらっしゃい。ボクんとこへ、ようこそ」
呆気なくソファに沈む彼女から、袴を抜き取る。
「怖ないの?ちょこっと抵抗してくれる位の方がボクの好みなんやけど」
袂を腕から引き抜き、ぱさり、死覇装が床へと落ちる静かな音。
まあ、ええよ。キミの仕草には媚びが見えへんから。当たり前のようにボクを受け入れる、大きな流れにただ流されるように。
「市丸……隊長」
「もっとこっちおいで」
なにかを求めるように、ボクの首筋に縋りつく。キミの欲しいものは、なに。知りたいことは、なに。
――闇の底まで覗く勇気はあるん?
「せやけど、キミはボクのこと嫌いなんやで」
首筋をきつく吸いながら耳に注ぐ声。繰り返す台詞。
「嫌いなオトコに抱かれる気分はどない?」
キミも愛やら幸せやら、そんなよう分からんモンを求めんのは止めてしまえばええんに。
慣れた手つきで胸を包む。脊椎のラインを確かめるように、ゆっくりと背中に指を這わす。与える快楽に身を捩る彼女は、むしろこの行為を愉しんでいる。
「悪うないやろ?自分の気持ちを裏切る感覚って」
「……っ、市ま…」
「背徳感いうんは、昔っから甘いモンやねん」
甘い吐息。腰の動きを止めないまま唇を塞いだら、そっとそっと優しく頭を掻き抱かれる。ただ、やさしく。
どない…?ボクはキミの欲しがってたモンを見せてあげられたんやろか。言葉はないまま、あたたかく包まれる。
ぐちゃぐちゃと響く水音の奥で、彼女の欲を本気で満たしたりたいと思いはじめてる自分に、ボクはまだ気ィ付けへんかった。
◆
かたかた、風が窓を揺する音でキミが目を覚ます。起きぬけに"ボクを好きになった"なんてヘンなこと言うから、ワザと怒らせたろ思た。挑発すればキミはすぐ乗ってくる。
「傷つけば傷付くほどキミはボクから離れられへんくなるやろ?」
否定できへんはずや。だってキミはそれがほんまやて、知ってる子ォやから。
ヒトの本質は汚い。いつも何かに支配されたがってる。何かに支配され、その何かに合うた仮面つけて演じとる、嘘ついとる。ボクと同じように、キミも。だから今度はボクがキミを支配したるんや。
「な…ぜ……」
「ほんまキミはアホやね」
そして、ほんまは剥がされたがってる仮面を剥がしたる。無理やりにでも剥がして、傷付けたる。
「だってキミがボクに求めてんのは、そういうモンやろ?」
最初っから…。音の出ない囁き声。
睨んでも無駄や、そこに怒りなんてない。キミが傷付けられたい思てるんはほんまやから。そしてボクの中にあるんも愛の仮面をつけたただの支配欲。
支配されたい女と支配したい男で、相性バッチリやないの。
「隊長は、嘘付きなんですね」
「嘘…?」
「"キミが求めるからキミのために"は"キミのせい"。"傷つけねばならなかった"は"傷付いて当然"。そうすり替えて正当化してるんですか?」
「さあ、どやろね」
「ヒトは常に、嘘で自分を正当化して生きているものですから」
鼻の奥がつんとする。キミは自分の感情を裏切って、好きでもない男に抱かれて――そういうのも気持ちがいいモンやて知って、絶望したかったんちゃうの?
「私も…です。無意識に嘘をつく、凶器に触れたくて手を伸ばす」
「ボクは……」
凶器、や。いつも誰かを破壊したくて傷付けたくて、だって壊されたいのはみんなの方やろ、そんならボクが手ェ貸したげる…そうやって暇潰ししてきた。
傷付けば傷付くほど、他者のなかに深く刻まれるから。刻んで刻んで怨まれて、いつか刺されるかもしれない。
誰かが刺して、ボクのこの退屈で憂鬱な毎日を終いにしてくれるかもしらん。そうなればええ。
だからボクは他者を打ちのめし続ける。自分に都合のいいように自分を正当化して。
「隊長だけじゃありません」
いいんですよ。ふわり、細い指が髪の隙間を潜って、彼女の体温がボクに届く。あったかい。
「やっぱり、私は……すこし隊長が好きになりました」
なにもかも許された気がした。沢山のヒトを傷付けて来たことも、その他の愚行も。他者の評価なんてずっとどうでもいいと思っていたのに、そのはずなのに。彼女に息を吹き込まれた。
瞬間、目尻を何かが伝う。キミの指先が雫を掬い上げる。慈しむようにゆっくりと。
そっと瞳を開けば、やわらかい表情がボクを見上げている。目ェはっきり開いたんは、いつ以来やろ。でも、目ェ瞑ったままではいられへんかった。
「戻られへんようになってしもても知らんよ」
「ただ、触れてみたかっただけです」
彼女の肌から襦袢を引き剥がす。なめらかに髪を梳きながら、腰のラインを撫でる。
ぐいと強く抱き寄せ、脚を絡めあう。
「凶器に?」
「ええ」
「ほんなら、今日だけ…な」
ボクは怖がりサンやから、自分がこの先も凶器のままいられる自信ない。それに、退屈が消えた気するのも気のせいかもしらん。これが気のせいやなんて思いたない。
だから、今日だけ。
「今日…だけ」
「ああ。今日だけはぜーんぶキミにあげる」
どことなく原罪いっこぐらい此処に残して行ってもええかな ほんまに大切なもんは、遠ざけとこ思た。二度とボクが壊してしまわんように。怖がりなボクを赦してな。
fin
2009.01.08
鳥籠のロマンス のふたり
原罪=キリスト教で、アダムとイブが神に背いて禁断の木の実を食べてしまったという人類最初の罪。また、人間が生まれながらに負っている罪。宿罪(=仏教で、前世に犯した罪。過去の罪過)。