飼い馴らされた指
「靴紐通してくれや」
休日の朝。寝ぼけた耳に入り込んだ真子の声はやけに艶っぽい。
でも、唐突に聞こえた響きは余りに予想外のものだったので、一瞬意味がわからなかった。
「……、おはよう」
なんだろう"クツヒモ"って――…ああ靴紐、か。
「おはようさん」
「なに?靴紐って」
「靴紐も知らへんの、お前」
すっかり目覚めすっきりの顔をした真子が、片肘をついて上から覗き込んでいる。陽光に金髪がキラキラと輝いて眩しい。
「知ってる…けど」
「あーびっくりした。お前がアホになってもうたか思たやんけ」
「いや、そういうことじゃなくて」
「せやから、靴紐。靴の紐や」
「うん」
「靴紐、結んでーな」
「分かった…わかりました」
「新しい靴 頼んでたん、さっき やーっと届いたんや」
「良かったね」
それで、さっそく履いてみようと思ったら紐が通っていなかった…と、そういうこと?新しい服や靴を手に入れたら、まず家で一通りファッションショーをするのが真子の癖だ。
だったら自分で通せばいいんじゃないの。真子、器用なんだし。
「いやや。断固拒否」
「…え?」
「いまお前、自分でやればええのに、て思たやろ」
「……う」
鋭いのは知ってるけど、勝手に人の脳内を読むのはやめてください平子真子くん。ただでさえ寝起きで意識朦朧としてるんだから。
「ほんで今は、勝手に頭ン中読むな、て思てるやろ」
「……ん」
「ほんまに、いっつも分かりやすいのう。ぜーんぶ顔に出てんで」
「うるっさい、真子のバカ!」
「バカって言うな、言うとるやんけ」
「真子のアホ!」
「アホちゃうわ」
「真子なんてキライ」
「はいはい」
「もう口もききたくない」
「ほんまか?」
急に低い声でささやかれて、身体が揺れた。表情にも声にも妙な威圧感があふれている。そんな態度取られると、逆らえなくなるじゃないか。
「………っ」
「そんなん言うてええの?」
「キライ……じゃないです」
「口は」
「きいてください」
「ほんで?」
「………ごめん、なさい」
いい子いい子と擬音が聞こえそうなやり方で頭を撫でられて、負けた…と思った。もう子供でも何でもないのに、頭撫で撫でには滅法弱い。それは認める。
「ほな、お詫びに靴紐結んでくれや」
「…………」
「返事は?」
「はい」
「良かったー、ええ彼女持ったわ。結構面倒やろ、靴紐結ぶん」
「……なんで私?」
「自分、そんなん得意やん」
「別に」
得意ではない、細かい作業が嫌いじゃないだけだ。そう思っていたら、こつん、目の前に一揃いの見慣れた靴が差し出された。
「このブーツと同じように結んでな」
「………」
「な?」
「わかりました」
「そのかわり俺、コーヒー入れといたるわ」
頭頂部にそっとキスを落として真子はキッチンへ向かう。今日もまた、朝からあの男にすっかりやられている。
という訳で、休日の朝から新品の革の匂いがするブーツと戯れることになった。
「何色や思う」
「茶色」
「ほんま?ワインレッドや思て買うてんけど」
「えー…ワインレッドに見えなくもないけど、茶色じゃない?」
「そうかァ?」
「うん。茶…色」
「もう一回聞くで、何色に見える?」
「………ワインレッド、です」
どうしてもそう言わせたいらしい、また妙な威圧感があふれている。言うまで引き下がらないつもりなんでしょう?全くこの男は…どこに意地を張ってるんだか。
「せやろ?ワインレッドやろ、最初っからそう言うたらええねん」
「はあ――…」
「なんやねんそのため息」
「いえ、なにも」
こぽこぽとコーヒーの落ちる音を聞きながら、ただ指を動かす。部屋に漂い始めた香ばしい香りで、やっと目が覚めてきた。
「んで幾らに見える?」
「うーん。バニスターでしょ」
「なんで分かんの」
「え……箱ですが」
「しもた。隠しといたら良かった」
「しかもそれに紐通しさせられたのは私なんですが」
「せやったな……」
「そうですね」
「ほんで、幾らに見えんの?」
こういう場合、わざと外して言うほうが真子は喜ぶ。それも高めに。
「……4、5万」
「いーや」
「7万」
「ちゃうちゃう」
「……10万?」
「アホか!そない大金出すわけないやろ」
「降参です」
案の定、得意げな顔になる真子はかわいい。
「2万や、2万!」
「嘘っ!?」
「ウソちゃうわ、2万や」
「それ、バニスターでしょ?」
「せやで。ほんまなら5、6万はするやろけどな」
俺の手にかかったらそんなモンやねん。うらやましいか?
「べつ……や、」
「ん?」
かすかにあふれ始めた威圧感に心のなかだけで苦笑する。ホントに意地っ張りで、なんて可愛い男なんだろう。
「羨ましい」
「せやろ、羨ましいやろ?」
「うん。すごい羨ましいよ」
「お前もなんか欲しいモンあったら言えや、当たってみたるから」
「アパレル業界に顔のきく彼氏を持って幸せです」
「アホか!」
照れているらしくそっぽを向いた真子の耳は、ほんのり染まっていた。
飼い馴らされた指幸せなんは俺のほうじゃ、ボケ…。