まぼろしごと食べて

 ――ここはどこだろう?

 目が覚めたら、そこは知らない部屋だった。お布団からいい匂いがする、ような気がする。詰まった鼻がかすかに嗅ぎ取るのは、上品な香り。
 見回したところ、自分の部屋よりも随分広い。起き上がろうとしたら、割れるほど頭が痛くて断念した。

「目ェ覚めたん?」
「……市丸…たいちょう」
「えらいうなされてたで」

 確かに怖い夢を見ていた。背中にうっすらと冷や汗の感触。でも夢の詳細はもう朧げで思い出せない。

「大丈夫、です」
「ほんま?」
「…ええ」

 それよりも上官の前で床に臥したままなんていう非礼は、瀞霊廷の死神としては許されない、と思った。
 無理をして半分ほど身体を起こした所で、とん、と肩を押される。

「アカンよ、まだ 起きたら」

 さっきは気付かなかったけど、重力に任せて再び沈んだ布団は随分やわらかくて肌触りがいい。

「…ここは?」
「ボクの部屋」

 寝そべる私を覗き込むように市丸隊長が上から見下ろしている。ではこの布団は隊長のものだろうか。気を付けて嗅いでみれば、さっきのいい香りはたしかにいつもの隊長のものに似ている。

「私 なぜ…」
「倒れてん。ボクの目の前で」
「すみません」
「謝らんかてええよ」
「でも、お手を煩わせました」
「そんなん気にせんと、もうちょっと寝とき」
「そういう訳には…」

 また起き上がろうとしたら、両肩をそっと押された。

「強情っぱりやねんね、キミは」

 まるで組み敷かれているような体勢にドキドキしながら、喉の奥から声を搾り出す。隊長のキレイな顔が、近い。さらさらの前髪が額にかすかに触れる。

「す…すみません」
「ボクが勝手に連れて来たんやから」

 ひたりと額に押し当てられた手の平が心地いい。

「まだこないに熱 あるやないの」
「ねつ…?」
「自分で気ィ付いてへんかってんね」
「……はい」
「風邪でもひいてんやろ」

 そういえば今朝からちょっとふらついていた。いつもの貧血か疲労のせいだと思っていたけれど。風邪……か。

「でも、私がここにいては隊長が」
「ボクのことはどないでもなるから」
「いえ。自室に戻ります」
「看病するヒトいてへんやないの」
「では、四番隊の救護詰め所へ」
「動いたらアカン」
「それくらいの距離なら大丈……夫」

 押し問答を繰り返していたら、不意打ちの低い声が耳の傍で聞こえた。

「ほんまに聞き分けのない子やねぇ」
「……っ!」

 やわらかい銀髪が頬をさわさわと撫でている。耳たぶにかかる息がくすぐったい。

「おとなしい言うこと聞きィ」

 背筋のぞくぞくするような、吐息混じりの低音に、全身がふるえる。

「ボクが好きでキミをここに連れて来たんや。勝手には帰らせへんよ」
「…はい」

 じっと目を見据えられて、至近距離の顔にうっとりと見惚れる。反論なんて出来そうにない。そんな余裕はどこにもない。

「それから、ヒトの心配なんてせんかてええから。さっさと治しィ」
「……はい」

 私が頷くたび、頭を撫でてくれる手の平が愛おしい。

「ボクの寝る場所なんてどないでもなるんやし。な?」
「………はい」
「それとも……ボクに"添い寝"して欲しん?」
「…………は い」

 あれ――いま私、なんて答えた?
 熱のせいか、あまりに隊長の端正な顔が近いせいか、正常な判断が出来なくて、頭のなかがぐるぐるしている。

「ようできました」

 隊長の口角が嬉しそうに持ち上がるのを見ながら、条件反射の肯定は案外本音だったかもしれない、と思った。ヒトの本音は追い詰められたり不意を突かれるとぽろりと溢れ出すものだから。

「ほんなら、お邪魔します」

 するり、おなじ布団に市丸隊長が潜り込んだだけで、心臓は壊れそうなほどにばくばくする。身体は固まってしまったように動かない。動けない。

「………」

 隊長がこちらを向いている気配を感じながら、指先ひとつ動かせず、ただ鼓動だけが高まっている。どくん、どくん、鼓膜のすぐそばで心拍が聞こえる。
 このままでは熱が上がりそうだ。

「キミやっぱり熱いねぇ」
「すみま、せん」

 なのに、伸びて来た腕にすっぽりと身体を包まれたら、なぜかホッとしていた。

「謝らんといて。ボクいま幸せなんやから」
「幸せ…?」
「せや。ずーっとこうしたかってん」
「そうなん…ですか」
「さっきまでもずーっとキミの寝顔を見つめててんけど、気ィ付いた?」
「いえ、寝てましたから」
「うなされてる顔も悪うないね」
「………」

 自分より少し低い体温に包まれ熱が奪われて行くのが心地よくて、隊長のやわらかい声が心地よくて。
 そっと目を閉じる。突然訪れた夢みたいな現実が、覚めないように。


「寝る前にもういっこだけ」
「……はい、なんですか?」
「もう、あんましその声で喋らんといて欲しねん」

 ぎゅうっと腕に力をこめられて耳たぶに触れそうな声。その声で喋らないで欲しいのは私のほうなんだけど。

「すみません、風邪…遷りますよね」
「そんなんはどうでもええんよ」
「……え?」

 顔を横に向けたら、くつくつと笑った隊長の薄い唇が、一度だけ額を掠めた。



まぼろしごとべて
そんな鼻声 こんな近くで聞かされたら、ボク変な気ィになりそやから。
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