欠落した空白
「えらい髪伸びてんなァ」
後ろから、脳天気なひとこと。
顔も見せずにじわじわと近づいてくる霊圧は相変わらずあたたかくてやさしくて、まるでずっとそこにあったもののように私を包みこんだ。質のよい匂いが全身の毛穴から私のなかへ入り込んで、たったいままで伸ばしていた背筋から力を奪われてゆく。鈍い麻痺毒のように。
「最初 誰や分からへんかったわ」
時の隔たりをすこしも感じさせない力の抜けた声。その響きのむこうに隠された、聞こえないたくさんの言葉を掬いあげようと、必死で神経を研ぎ澄ます。耳が、肌が、その内側が勝手に張り詰めて、そこにたしかにある存在を貪ろうとする。
だからこそ、振りかえることができなかった。いま振りかえってしまえば自分がなにをするのか、どんな反応を示すのかわからなかった。
そこにいない彼の幻影を確かめるだけなのではないかと思えば怖かった。溜めて溜めて溜め込みすぎて煮詰まって凝った何かが、堰をきって溢れでる寸前で これは夢だ と気づかされる。そんな夜を幾夜も幾夜も幾夜も、幾夜も。数え切れないくらい幾夜も重ねて、私のなにかが擦り減った。擦り減って擦り切れすぎて、名前すら呼べなくなった。
頭のなかから追い出そうとすればするほど、それは深いところに根を張った。いつか内側から蝕んで蔓延って私を破壊するのではないかと思った。
一度死んだ人間が、再びなにかにこんなふうに執着するなんて愚かだ、と。そう言い聞かせてきた。言い聞かせねばならないほど、私のなかはそれでいっぱいだった。それだけ、だった。
「ちょっと痩せたんちゃうか」
「会いたかったで」でも「堪忍な」でもなく、敢えて障りのない日常的な会話を選ぶところが、とても彼らしいと思った。上っ面だけの浅い言葉を繰り出されるよりもずっと信頼できると思った。
いや、違う。
今は、ふたりの関係にかかわるどんな台詞を並べられても、薄っぺらで嘘臭いものにしか聞こえないのだ。それくらい長い間離れていた。
「どちらさま、ですか」
振り返らずに問う。
感情を抑える術には長けているつもりでいた。胸の内側でおおきくなろうと暴れるものを、そっと見えないてのひらで包み込み押さえ付ける。じたばたと不恰好に騒ぎ立てるそれにじわじわと力を込めて、ぺしゃんこになるまで押し潰す。そうしてできた小さな塊を丸めて、身体のずっと奥のおくまで隠しこむ。自分でも見つけられないくらい深くへ。
なのに何故だろう。そんなものは最初からなかったと思えるくらい深い所まで沈めたはずの想いが「どちらさま、ですか」という短い言葉に、ぜんぶ乗ってしまったような声が出た。もう、これ以上ひとことも喋れないと思った。だってこの人は、たったそれだけですべてを見抜いてしまう人だから。気持ちを汲む能力を、どうかいまだけ、なくしてくれればいいのに。
視線の隅っこでふうわりと羽織の裾が揺れた。嘘みたいな軽やかさで、揺れていた。
「あらァ?新しい自隊の隊長さんに何言うてんねん」
まるで昨日までも毎日くりかえされたようなやり取りが怖くて、背中で拒絶した。
突然消えたくせに。何も言わずに突然、消えてしまったくせに。なのに。なんでこの人の声はこんなにあたたかいのだろう。なんで包みこむ霊圧はこんなにやさしいのだろう。
母親の胎内で生温い羊水にゆらゆらと揺られて、絶対的な愛情にゆるく包まれているときのようで。そんな幼い記憶などどこにも残っているはずはないのに、触れる前から抱きしめられている錯覚におちいる、そんなあたたかさが私に纏い付く。やさしすぎて息苦しい。こんなものを与えられる価値なんてないのに。私にはそんな。
「………」
「もしもォーーし、聞こえたはりますかァ?」
本当はね、隊長。私ずっとあなたのことを責めていた。ずっとずっと、責めていました。
こんな永遠の命を与えられて、忘れることも憎むこともできないくらいあなたを刻まれて、私に厭というほど鮮烈にあなたを刻み付けておいて、さらりと手を離したあなたを責めていた。思い出さないように、考えないように、問わないように。自分の生きている意味だとか、ここにいる理由だとか全部ぜんぶどこか遠くへ押しやって、私じゃない私でしか日々をすごせない私にしたあなたを責めていた。考え過ぎるなと諭しておいて、なによりも大きな考え事をもたらして消えたあなたを責めていた。
ねえ、隊長。私あなたのいない間にすごく、ものすごくたくさんの人と付き合いました。伝えたらびっくりされるくらいの数ですよ、数えてないけど。でも、終わりのない私に始まりはなかった。誰かに抱かれてもいつもいつもあなたと比べて落胆するだけだった。あなたを思い出すだけだった。あなたの良いところばかり浮かんで苦しくなるだけだった。あなたとの終わりをきちんと迎えられなかった私には、新しい始まりなど訪れないのだと思った。そうしてまた、あなたを責めた。
いつか必ず訪れる別れのためにどうでも良い相手ばかりを選んであきらめていた私を、私の奥底に潜めた気持ちを、引きずり出しておいて、自分でも知らなかった埋もれた奥の奥まで掘りおこしておいて、消えたじゃないですか。「後悔させへん」とか言ったくせに、あなたは、消えた。
ざらざらと私を内側から撫でまわして、固まった私の心をぐちゃぐちゃにほぐして、それまで必死でたもっていた輪郭を壊すだけ壊しておいて消えた。心だけここに残して消えたあなたを、責めて。責めて。責めて。
そのくせあなたがまだ何処かで生きていると思えば、死ぬことすらできなかった。生きていなくてはならないと思った。あなたを責め続けるために生きなければならないと。
だからそんなふうに優しく包まれるなんて、あの頃のように包んでもらうなんて、私には勿体ないんです隊長。
「………」
「そろそろ、顔見せえ」
その気になれば簡単に私の前に回れるくせに。腕を掴んで無理矢理振り向かせることだってたやすいはずなのに。手の届きそうな距離で立ち止まったまま、一歩も動かない彼も私と同じようになにかを怖がっているのだろうか。隔てた時を、距離を、すこしは畏れているのだろうか。
「………」
「えらい嫌われたモンやなァ。しゃーないか」
「………」
「まあ、ぼちぼち仲良ォしてや」
そうやって、ちっとも準備の出来ていない私に猶予をくれる。頑なな心を無理にほぐそうとはしないのは、彼のやさしさ。それとも恐怖。どちらなのだろう。
「ほな、またな」
すっと私の横を追い抜いて通り過ぎた彼の背に、隊長格を示す漢数字がみえる。またこんな光景を見られる日が来るとは思わなくて、だけどこれは幻影ではなく現実なのだ。平子隊長が、ここにいる。それだけで、じわりと込み上げるものを止められない。嗚咽をてのひらでなんとか押し殺して、目をみひらく。音もなく雫は頬を伝う。
ひらりと後ろ手に振られるてのひらは、あの頃とちっとも変わらず大きいのに繊細そうな表情を浮かべて、言葉よりも雄弁にあなたを伝える。肩で切り揃えられた髪に、隔てた時のながさを想う。
腰までのびたあの長い髪を切るのと一緒に、彼の断ち切ってきたものたちを想う。
一方の私は、ずるずると伸ばしつづけた髪にいろんなものを醜く絡みつけたまま。あの頃から一歩も動けずにいるというのに。
ぽたり、ぽたり。壊れた蛇口のように止めようとしても言うことを聞かないしずくが、瀞霊廷の床に吸い込まれてゆく。乱れた霊圧に気づかず、早く立ち去ってほしい。はやく。どうか早く、私の見えないところへ。
ずいぶん遠くなった背中から、まだ目を反らせないままうずくまる。立っていられなかった。身体の芯を支えるものが揃って役目を放棄したように、力が抜けてうずくまって、嗚咽をこぼして。
久しぶりに見た隊長のすこし猫背気味のその背中が、愛しくて愛しくて愛しくて、自分のなかでなにかが振り切れて今にもばらばらに壊れてしまいそうだった。背中だけでこんなに愛おしくておかしくなりそうなのに、よくもあの頃、あんなに近くに立っていられたものだ、と思った。
その背中が見えなくなったのを確かめて、声を殺さず泣いた。涙はあとからあとから溢れ出て、いったいどこにこれだけの水分が潜んでいたのかと不思議だった。何十年も何百年も生きていて、まだ不思議に思えることがあるのが不思議だ、なんて馬鹿みたいなことを考えながら泣きつづけた。
百年以上溜まりにたまった自分のなかの凝ったものが、二度と溶けないくらいに固まっていたはずのものが、一瞬で融解して逆流してきたような涙だった。彼がいなくなって自分は抜け殻になってしまったと思っていたのに、止まる気配もなく迫り上がってくるものに途方にくれた。
私を途方にくれさせるのは、いつもあの人だった。あの人だけだった。
泣いて泣いて泣きすぎてこめかみがきりきりと痛みを訴えはじめた頃、やっと、自分がまたあの霊圧に包まれていることに気がついた。やわらかい霊圧に包まれているせいで、内側に溜まったものが次々に引き出されていたのだと気がついた。気がつくよりずっと前から、そこにあったのだ、と。
顔を覆っていたてのひらをそっと外すと、額のふれるほど近くに隊長の顔があった。かすかにひそめた眉の下で、琥珀の瞳が気遣うようにこちらをみている。涙で顔に張り付いた髪を、長い指がそっと絡めとる。
「何ちゅう顔してんねん」
「た…い……」
どんな顔をしているのだろう。きっと泣き疲れたひどい顔に違いない、と思ったら恥ずかしくなって俯いた。伸びてきた指に顎を掬われれば、胸が痛くなった。
涙で水分が出尽くして、すっかり声は嗄れていた。掠れた喉では彼を呼ぶことさえできなくて、むねの途中でつかえたものが煩わしい。呼びたいのに呼べないことが、苦しさをまた跳ね上げた。
「あほか」
なぜここに?と、問う代わりにじっと眼をみつめる。なにもかもを見透かした澄んだ目が、私をじっと見据えていた。
「そんなん 可愛い女の子が泣いてんのに、放っとかれへんやろ」
その軽口をきいて、ああ隊長が本当にここへ戻ってきたのだ、と思った。ふたたび染みわたる実感が呼び水になって、また出尽くしたはずの涙が溢れだす。止まらない。
「許してくれなんて言わへん」
白い指が頬にふれて、体温が染み込んでくる。細胞がそろって彼を求めるように、肌の下でざわざわとさわいでいる。視線を交わらせたまま羽織に縋れば、隊長の瞳からすこし余裕がなくなった。自分はもっと余裕のない顔をしているはずなのに、もう眼を反らせなかった。かわる表情を見逃したくなかった。
「しゃーけど、」
語りかける声が、じわじわと私をほどいてゆく。凝縮して押し込めて沈めた奥に私がいた。この人がいなければ、この人の傍にいなければ、自分はきっと死んでいたのと同じだった。生きていなかった。
「もう一回最初っから狙うくらいは許してェや」
ひとこと喋るたびになにかを抑えつけたような彼の息が、くちびるをぬるく撫でる。しずくを拭う指のやさしさに呼吸が止まりそうになって苦しくて堪らなくて、やっと自分が生きていることを思い出す。
至近距離の彼の舌に光るピアスも見慣れない髪型もぜんぶ愛しくて、知らない彼をぜんぶ知りたくて、はやく触れたくて動悸があがる。はなれていた時間を埋めるには、なにからはじめればいいだろう。まずは名前を呼ぶことから、だろうか。
嗄れた喉が回復したなら、嫌になるくらい何度も何度も彼の名を呼んでやるのに。あきるほどに連呼して、そして、そのあとは…――
「おかえり な…さい」
言うことをきかない喉の奥からやっと歪なひとことを搾り出せば、私の考えなんてすべて見通している表情で「ただいま」と彼は笑う。琥珀の瞳が眩しそうに細まって、焦がれた腕が背中にまわる。待ちきれずに抱きついたら、骨が軋むほどぎゅうぎゅうと抱き返されて。
一音、一音、確かめながらゆっくりと私の名を綴ったくちびるが、なにもかも吸いつくすように呼吸を奪った。
欠落した空白(お前がウン言うまでいつまででもまとわりついたるつもりやってん)- - - - -
2012.01.16
隊長side >>帰っておいで
わたしもうだめだ