レッドゾーン、突破
あ…また。
視線が重なって、一、二、三秒。
見つめ合ってきっかり三秒後、彼は口角をきゅうっと持ち上げる。うっとりするくらいの不敵な笑み。
視線の外し方はいつもあまりにさりげないので、見つめ合ったのが嘘みたいに思える。私の幻想だったんじゃないかって。
残るのは、酸素の濃度がほんのすこしだけ下がってしまったような、かすかな息苦しさ――それだけ。
◆
最近、市丸隊長と良く目が合う。
とは言っても、彼の瞳は開いているのか閉じているのか分からない形をしているので、勝手な私の思い込みかもしれない。とにかく彼の顔が私の方を向いていることがよくあるのだ。
最初は気のせいだと思った。けれど毎回視線を合わせてきっかり三秒後、まるでお約束のように彼の唇は持ち上がる。
――どういうつもりか知らないけど勘弁してください。
おかげで私は既に、かなり調教されているらしい。いまでは隊長と同じ空間にいるだけで、あの視線と笑みを待ち焦がれるように脈拍が乱れはじめる。まるでパブロフの犬だ。
「どうしたんだい、ため息なんてついて。疲れたの?」
「いえ、大丈夫です」
「僕のほうは案外はやく終わりそうだから、少し引き受けるよ」
吉良副隊長との事務的な会話の途中で、さりげなく視線を流せば また 市丸隊長がこちらを見ている。ホント心臓に悪い。
「じゃあ僕は、先にこの書類を九番隊に届けに行くから」
「いえ、私が」
「いいよ。君すこし疲れてるみたいだし、ここで続きやってて」
行ってらっしゃい。と、立ち去る副隊長を見送りながら、声にならない声で"早く戻ってきてください お願いです"と叫ぶ。ふたりきりになってしまった どうしよう、どうしよう、頭に浮かぶのはそればかりだ。
――ふたり、きり…。
背中に感じる視線が気のせいではない証拠に、部屋を満たす霊圧がすこし上がった。絶対に彼はこちらを見ている。見えているのかいないのか分からないあの狐目で。だって背筋がぞくぞくするから。
恐る恐る振り返ったら、予想通り市丸隊長の視線とぶつかった。
なにか私の行動に不備でもあるのだろうか。そう言って貰えればすぐにでも直すものを、彼はただ視線を送り、不敵な笑みを浮かべるだけ。なにも言わずに。
ふ、とため息をついて疲れた瞳を閉じたら、シャットダウンした目蓋の内側に市丸隊長の不敵な笑みが浮かぶ。肌の色も口角や目尻の描く角度も、たぶん寸分違わない。
目を閉じてもこんなにはっきり隊長の顔を思い出せてしまうなんて、ちょっと悔しい。おまけにそれだけで心臓まで騒ぎはじめるから、鎮めようとむきになるじゃないか。
もしかしたら、自分ではなく近くのなにかを見ているだけなのかもしれない。そうにちがいない。だって、理由がない。
彼が私を見つめる理由が、ない。
無理矢理そう言い聞かせても、どこか納得のいかない部分がある。この感覚はなんだろう。
皺の寄ってしまった眉間をかるく揉みほぐして目を開く。お茶でも入れようと立ち上がれば、市丸隊長はまたこちらを見ていた。
今度もいつもと同じことの繰返し と思っていた矢先、不意を突くように市丸隊長が歩み寄ってくるから、思わず反射的に一歩 後退る。
「酷いなァ、人の顔みるなり逃げるやなんて」
「すみません」
いつもより近い距離で目を合わせると、彼はにっこりと唇の角度を深くした。
すい、と顔を寄せられて、さらさらの銀髪が近い。きれいな顔だなあと思うよりも先に、自分の心臓が壊れそうだと思った。全力疾走のあとみたいに鼓動が早い。
「なにかご用ですか?」
事務的に喋ろうと努めて失敗してしまったような、情けない声が出て。せめてこの動揺を悟られないようにと彼の唇ばかり見ていたら、余計に動揺するから泣きたくなった。
「用がないと、話しかけたらアカンかった?」
またあんな声が出たら堪らない、と無言で左右に首を振る。
びっくりする位顔が近くて、隊長が喋るたび唇にかかる吐息で、身体が固まったように動けなくなる。
「よかったァ」
そういって、にっこり笑ったまま彼は私を見下ろしている。行く手を阻まれ、前に進めない。背後には壁。ご丁寧に肩越しに壁に手を突かれれば、さながら追い詰められた獲物の様相だ。
隊長は何のために私を見ていたのか、何故今日に限ってこんな風に近寄って来たのか、何が話したかったのか、なにも分からなかった。このままでは、お茶を入れに行くことも出来ない。
それ以前に、ふたりきりでこうしていることが息苦しい。うすく開いた目から、見慣れない濃緋色が覗けば、いやでも胸が高鳴ってしまう。
あきれるほど長い沈黙。
その間、たった一秒も目を反らせない。なぜ、なぜ、なぜ。良かったってなに?一体これはなんなんだろう。
「なんて顔してんの、」
「……」
「そないな顔見せられたら、自惚れてしまうよ?」
私はどんな顔をしているのだろう、と思ったら恥ずかしくて叫びたくなった。自惚れるの意味を勝手に結論付けたがる都合のいい自分を、必死で押し留める。
酸素の回らない頭がくらくらし始めるまで、呼吸を忘れていることにも気付かなかった。
だめだ、こんな緊張感。もうこれ以上耐えられない。
「あ、の――」
どいてください、と声を絞り出す前に彼の声が頭上から降ってきた。
「ボク、キミに嫌われてんのか思ててんけど」
そんな。まさか…と声にする代わりに、目を見開く。咽喉はすっかり嗄れてしまった。口を開こうとすれば、唇がふるえてため息に似た吐息だけが漏れる。
なんだろうその優しい顔は。彼が私を見つめる理由なんて、ないはずなのに。回らない脳の代わりに網膜はフル稼動。いちいち艶かしく動く唇も、見慣れないキレイな瞳も、もうしっかりとこの目に焼きついてしまった。
「ちゃうみたいやね」
「……」
「ほんならまた話しかけてもええ?」
不可解で奥が深くて、なのにどこかしら可愛げもある表情。無邪気な子供のような、でも、底知れないなにかを秘めたその顔を見つめて、こくり。いちど頷く。
「ずーっとキミのこと見てたんよ」
ほんの数センチの距離で視線を合わせたまま、聞こえる隊長の声がおそろしくやさしいことよりも自分の心臓の音に気をとられていた。
「どないしたん?」
「……え」
「ずっとキミのこと、見てた 言うてんけど」
「………」
こんなにばくばくと煩く鳴り続けたら、隊長に聞こえてしまうんじゃないだろうか。それ以前に霊圧が乱れまくっているから、とっくに動揺は見抜かれているはず。
一瞬だけ瞳を意地悪に歪める仕草が、ひどく色っぽい。
「キミも、ボクのこと見てたやろ」
心臓が張り裂けそうって、きっとこのことだ。早打ち続ける鼓動を持て余したまま、無言で隊長を見上げる。
なんで気付かないフリなんて出来たんだろう。彼とよく目が合う気がしたのは、私も彼のことをよく見ていたから。そんな単純な事実に、いまさら気付いたなんて言い訳にもならない。
「なんでやの?」
ぽん、と純粋な問いを投げる声がいつもより少し低くて、どくん、一際高く心臓が跳ねる。
ひんやりと冷たい手が頬に触れ、肩が揺れたのは温度差のせいではないと私も彼ももう分かっている。逃げられないし、逃がすつもりもないのだ。
なぜか、なんて聞かなくてもホントは全部知ってるくせに。それでもなお言わせたいと、慈しむような目が私を見下ろすから。
「ボクに教えてくれへん?」
「……っ」
「な?」
甘えた熱い吐息を耳元に注がれたら、消えそうな本音がこぼれおちる。
「たぶん、隊長と同じ理由――」
「なんや、思てたより素直なんやね」
余裕の台詞とは裏腹に、ふるえる指先が私の唇を神経質そうに撫でている。いま聞こえた私の返事が、ほんとうにこの唇から漏れたものなのか、確かめるように。
初めて目にした玩具に触れるような、怯えた感触がくすぐったい。
私の反応を窺っては切なそうに眉を顰める隊長は、やっぱり無垢な子供みたいに可愛くて。この人を好きだと思ってしまうのは仕方のないことだと思った。あんなに目が合ったのは、自分が彼を好きでいつもいつも目で追っていたから。毎回息苦しかったのも、目を閉じても隊長の姿がくっきり浮かんでしまうのも、そういうことなのだ。
改めて自覚すればあまりに単純。
隠せない事実に胸を抉られてそっと眇めた眼尻を、隊長のやわらかい唇が掠めた。
レッドゾーン、突破もうアカン。ボク、そないな顔にほんまめっちゃ弱いねん。