その感情の手前で

 余裕がなかった。言ってしまえば、そんな簡単なこと。


 その日市丸が隊首会を終えて三番隊舎へ戻ると、彼女は隊首席で丸くなっていた。いつもは凛と背筋を伸ばしている女の無防備な姿に胸をくすぐられて、無意識に霊圧を忍ばせる。

「猫みたいやな…」

 小動物のように背中を丸め、すっかり凪いだ空気をまとった寝顔。撫でてあげたいと思った。ちいそうてかわいらしいモン見たら、撫でて撫でて撫で回して息が止まるほど抱きしめてしまいたなるのはなんでやねやろ。
 あの柔らかそうな髪を撫でたら、弄られて咽喉をごろごろとを鳴らす仔猫のように、気持ち良さそに啼いてくれへんやろか。
 って、いやいや焦ったらアカン。ボクはまだ、ただの彼女の上司。こっそり彼女に懸想しとるただの上司や。思いがけず無防備な姿見せられたから、ちょっと血迷ってしもただけ。こないなことは順番が大事やからね。

 イヅルが急に現世任務に行ってしまったのも、その日に限って三番隊の誰もが執務終了とともにさっさと帰宅したのも(イヅルがいてたらいつも皆付き合い残業やからこんな時位早う帰りてボクが言うたんやけど)、彼女がボクの机でうたた寝していたのも、すべて偶然。
 そしてボクと彼女がふたりきりで残された。

「ほんまによう寝てる」

 よほど疲れているのだろう。規則的な寝息をたてる彼女をゆっくり寝かせてやろうと明かりを消したのが、ひとつめの間違い。
 でもそのときはまだ、ボクの中に下心はほとんどなかった、はず。
 純粋な親切心の片隅に一瞬だけ『照度と衝動の因果関係』がよぎったのには気付かないフリをした。

 明かりを落とした部屋に月光が舞い込み、彼女の肌を青白く照らす。いつも綺麗な彼女がなおさらキレイに見える。うすく開いた唇がとてもやわらかそうで、視線を吸い寄せられた。
 夢の中の台詞を映して小刻みに動く唇。つんと突き出されたそれに触れたいと思った瞬間、胸の奥がかすかにむず痒くなる。

 満月はオトコを狼にする言う俗説はほんまなんかもしれへんね。さっきまで下心なんてなかったんに、急に胸がざわつきはじめる。これは月のせいや、ボクのせいとちゃう。

「そないなとこで寝てたら風邪ひいてまうよ」

 聞こえないくらいの小声にわずかな下心を隠して、さらりと羽織を脱ぐ。彼女の寝顔があんまり可愛いから、もう暫く観察したいと思った。
 他人の寝ている所を眺めたいなんて、よほど愛情がなければ浮かばない感情だと、とっくにボクも気付いている。かすかに感じるむず痒さの理由も。

 風邪をひかれては困るのでとりあえず隊首羽織でもかけてあげようと後ろから近づいたのが、ふたつめの間違い。

「なんもないよりマシやろ」

 肩に伸ばした両手の脇、ちらつく柔肌に視線が釘付けになる。
 隠れているものが見える瞬間というのは、なぜあんなにドキドキするのだろう。秘密を覗いてしまったような妙な高揚感で、勝手に心が過敏反応をはじめる。
 下ろした髪でいつもは見えへんうなじが髪の隙間からちらりと見えた。たったそれだけ。でも、それだけで胸の奥を掻きむしられるようなむず痒さはさらに勢いを増す。

「……ん、」

 そんなボクの前で可愛らしい声なんか出されたら、襲いたくなっても仕方あらへんよ。本気で懸想してんねから、ええ加減な手ェの出しかたしたないんに。

「そないな声出さんといて」

 ちいさく呟きながら、気が付けば艶やかな髪へと手を伸ばしていた。やっぱりやわらかい。仔猫撫でんのとは比較にならへんくらい胸が苦しいて、なめらかな感触を味わい、指に絡めた幾筋かにそっと口づける。

「市丸、隊長…?」
「目 覚めてもた?おはよう」
「え……わたし」

 寝起きのとろんとした瞳が市丸を見上げる。上目使いで焦点のさだまらない様子に、ぎゅうっと心臓を絞られた。
 なんやのその可愛らしい表情は。ボクがキミのことをいつもいつも気にしてるて分かってて、わざとそないな顔見せてんの?

「ええよ、まだ。気にせんと寝とき」

 ざわつく感情を物分かりの良い上司の台詞でごまかして、空気を変えるためわざとふざけた調子で髪をくしゃくしゃと撫でた。
 ボクは決して純情で潔癖なタイプではない。一般的な成人男性並の性欲を持つ健全なオトコだ。けれど、好意を持つ相手を手当たり次第に襲うような趣味はないし、それほど女にも困ってはいなかった。
 特に自隊の席官相手になれば常より慎重になる程度の常識は持ち合わせている。面倒なことは何よりも嫌いだから。

「すみません、隊長のお席で」
「せっかく寝顔堪能してたんに」
「え……?」
「可愛らしい顔してたで」

 軽口に隠して反応を見る。その狡さの裏には、ぐつぐつと滾る感情があることに彼女は気付くだろうか。

「すぐ、退きますので」
「ええて言うてるやろ」

 慌てて立ち上がった彼女を後ろからふわり、抱き竦める。こんなやわらかさにも甘い匂いにもすっかり慣れっこだ。なのに驚いて振り返った瞳を間近で見せられたら、柄にもなくくらくらして離せなくなった。
 なんや、今までボクぎょうさん女抱いて来たんに、それとは全然違う気ィして。腕が解かれへん。

「……隊長?」

 目の前の白いうなじに、唇を押し付ける。抵抗されればそこでやめるつもりだったのに、腕の中のキミは肩を揺らしちいさく吐息を漏らすから。だからやめられなくなる。ボクがどれだけ彼女を欲していたのかに、嫌でも気付かされる。
 気付いてしもたらもう抑えられへんようになって、濡れた後れ毛を舌で絡め首筋に唇を這わした。

「はなして…くだ」

 もがく彼女の襟元が乱れて、うなじより少し下の肌が見えたら、もっと隠されている部分を見たくて堪らなくなる。正常なオトコの欲望だ、ボクが悪いんとちゃう。彼女のせい。離せと言われたら離したなくなんのも、逃げられたら追いかけたなんのも、ヒトの持つ摂理みたいなモンで。せやからボクは悪うない。
 言い訳を繰り返しながら、情事に慣れた癖のわるい指は勝手に腰紐へと伸びている。

「ほんまに離してもええの?」
「…ええ。はなして」

 腕を解く瞬間にするり、ほどかれた紐のせいで、振り向いた彼女の襟元がすこしだけ左右に開く。
 寝起きのまだぼんやりとした表情に少し乱れた髪がやけに色っぽくて。振り返りざまに両手を捉えると、机へと押し付けた。

「どないな夢見てたん?」
「夢……」
「見ててんやろ、唇動いてた」

 無理な姿勢のせいで、目の前にキレイな鎖骨が迫っている。目に毒だ。
 でもまだ、ギリギリ冗談でしたで済ませられるくらいのコントロールはできるつもりだった。「堪忍な、冗談や」そう言って笑えば、まだ普通の上司と部下でいられる。そういうのが受け入れられる変わり者の隊長を演じてきたから。

「な。どんな夢?」
「………っ」
「話されへんような内容やったん?」

 ほんまは夢の内容なんてどうでも良かってん。たぶん。ただ、近くで彼女の顔をもう少し見たかっただけ。それだけ、やったのに。

「…隊長の、夢……です」

 もうアカン。そないなこと言われてしもたら、止めれるモンも止められへんようになるやないの。不意打ちにもほどがあるわ。

「ボクの?」



 そこからはあっという間で、自分でも何をどうしたのかはっきりと覚えていない。ただ無我夢中で、数分後には全裸の彼女を抱きしめているボクがいた。
 初めて抱くのに布団まで我慢することもできずに、机に押し付けるなんて酷いオトコだなと自嘲して。だけど、衝動を抑えられなかった。触れたい衝動も、見たい気持ちも。
 ふるえる指先で肌を辿る。彼女の全てが見たくて、自分の着てるモンを脱ぐ余裕すらなかった。

「おいで」

 そういいつつ、彼女を抱えたまま腰を落として椅子に座る。その瞬間ぎゅうと締め付けられて、もっとラクな体勢をとろうなんて考えは一瞬で消え去った。
 徐々に反る背中のカーブに合わせ、繋がった部分の密着度が変化して、思いもよらぬ快感が押し寄せる。

「こっちや。ほら、手ぇ伸ばし」

 薄闇の中、素直に手を伸ばす彼女が愛おしい。その手を包み込み首元に誘導する。ぐいと腰を引き寄せれば、内臓の奥にぎちぎちと分け入るような圧迫感に背筋が痺れた。
 隊首室のバランスの悪い椅子の上、今にも崩れ落ちそうな姿勢で繋がったまま、呼吸を荒げているボクとキミ。痺れに耐え切れず漏れだす吐息が、ボクをどんどん火照らせて。愛おしさを感じれば感じるほど虐めたくなる。
 髪を撫で、荒い息を繋げ、すべてを剥がした彼女のもっと奥にあるものを探るように腰を進める。
 見たかった。彼女のなかにあるものを全部見せて欲しかった。繋がっているのが身体だけじゃないと、確認して安心したかった。しっかり繋がっていることを彼女にも感じて欲しかった。

「キミとボクが繋がってんの、わかる?」

 予想以上に熱っぽい瞳に、バカみたいに煽られる。啜り泣くような声に煽られる。肩を噛む歯の寄越すにぶい痛みも、背中に立てられる爪の感触も、キミの全部に煽られて。

「ボク、ほんまに好きなモンにはめっちゃ臆病やねん」

 身を捩る彼女に低く笑うと、ぎりぎりまで腰を引き、じっと瞳を見つめては一気に奥を攻める。ぎしり、椅子の脚が軋んだ。



 恋をするとヒトは馬鹿になってしまうらしい。あれからボクの頭ン中はますます彼女でいっぱいや。他のことなんて考えたないくらい。

「隊長、急ぎの書類をお持ちいたしました」
「おおきに。そこ置いて、こっち来ィ」
「いえ。すぐに仕上げて頂いて九番隊へ持参せねばなりませんので」

 そう言って机へ近付いては、すぐに離れようとするキミの手首を咄嗟に掴んでいた。
 あんなことがあった後でも彼女の態度は全く変わらない。それどころか、ますます事務的になっているような気ィすらする。

「離してください」
「いやや」
「私なら大丈夫ですから」
「…大丈夫、ってなにが」
「誰にも言いません」

 誰にも言わない。それがこの前の晩のことだとすぐに分かった。彼女の声がかすかに尖っていることも。
 ボク、もしかしてテンパってしもて大事なこと伝えてなかってんやろか?確かに余裕なんて全然あれへんかったけど。でも、ちゃんと伝わってるて思たのに。
 彼女の反応から冷静に判断すれば、ボクが好きでもないのにただの慰み者としてキミを抱いたと思っているらしい。なんでそないなるん――最低や。

「この前のこと、なんや誤解してるんちゃうか?」
「気に、してませんから」
「へ……なに言うてるん」
「わきまえてます、だから」

 ほんまに分からへんのやろか。あない一生懸命伝えたんに、堪忍してぇな。頭抱えるボクの上から淡々とした声が響く。

「隊長もお気になさらないで下さい」
「………それ本気なん?」
「本気、って」

 すうっと眼を伏せた彼女が苦しげに見える。苦しい、ということは、まだどこかで望んでいるということ。
 たしかにあの時の彼女は、瞳も揺れてぐらぐらやったけど、ボクはちゃんと伝えたつもりやったのに。身体だけやなくて、別のモンも繋がったつもりでいてたんはボクだけやったんかな。

「ボクの気持ち、伝わってへんの?」
「……気紛れ…ですよね」
「かなんな、また言わす気なん?」

 繋いだままの手首をぐっと引き寄せて、膝の間に座らせる。甘い香りに煽られそうになったけど、今はアカン。このまままたここで抱いたら、ますます誤解されるだけや。

「…今は、書類を」
「はいはい。わかっとる」
「では、はなして下さい」
「それはいやや」
「でも……」
「君がここにいてても、仕事は出来るやろ?」
「……」

 大人しいなった君の肩に顎をのっけて、書類に筆を走らせる。きみが近くにいてるだけで心臓の鼓動が激しなってんの、ちゃんと伝わってるやろか。

「急き前で仕上げるさかい、ちょっと待っててな」
「…はい」
「ほんで、これ仕上げたらご褒美に夜 あけといて」
「なぜ…?」
「キミに伝えなアカンことあんねん」

 手を止めて耳元で囁けば、腕のなかで肩がゆれる。また煽られそうになって、きゅっと眉間のシワを深めると、浅いため息。

「たいちょ……」
「せやから、逃げんといて」

 もう分からへんなんて言葉が出てけえへんくらい、じっくり時間かけて丁寧に教えてあげるさかい。せーだい覚悟しててな。心の中で呟いて、泡立つ細いうなじにそっとそっとキスを落とした。



その情の手前で

もっとしっかり分からせたらなアカンみたいやね。
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