その吐息すら殺して

 あれ?もしかして私…――
 そんな疑問を持ってしまったときには、大抵がとっくに手遅れ。

 もう抜け出せない所まで病状は進行していて、目につくのは筆を握る彼の指が意外に繊細なことだとか、捲った袖口から覗く手首が芸術的な形をしているとか、うすい唇からもれるため息の切ない艶だとか。心臓に悪いことばかり。
 あとはただ、ずぶずぶと自分が沈んでいくのを黙って見ていることしかできない。


「君、先に帰ってくれて構わないよ」
「いえ。お邪魔でなければ私もお付き合いします」
「邪魔だなんて、とんでもない」

 そう言って少し困ったように笑う吉良副隊長の表情が とても好きだ と自覚したのはいつだっただろう。
 見つめて、自覚して、問い返す。私はこの人が好き?――好き。
 その些細な行為が、自分をまた少しどこかへ引きずりおろす。分かっていてやってしまうのだから、本当に愚かだと思うのにやめられない。
 とっくに書類に視線を落としてしまった吉良副隊長を見つめながら、伏せられた睫毛がきれいだと思ったら、心臓は勝手に活動を早めた。

「また付き合い残業なん?」
「ええ。もう少しだけ」
「顔色あんま ようないで。女の子やねんし 程々にし」
「はい。お疲れさまでした」
「ほな、ボクはお先」

 羽織を翻して出ていく市丸隊長を見送れば、部屋に残されるのはふたり。吉良副隊長と私。事実を意識すればまた追いつめられるだけだから、心になんとか蓋をして乱れる呼吸をそっとととのえた。

「いつも悪いね」
「いえ。仕事ですから」

 脈拍が早まったせいだろうか、少し頭が痛い。
 窓を透かす僅かな明かりに誘われるように目線を投げたら、ほんのりと色付きはじめた柿の木の上に、正円を綺麗に半分こにしたような橙の月がぽかりと浮かんでいた。
 暗い夜空に浮かぶ暖かなその色が、彼の蜂蜜色の髪を照らす。
 前髪できれいに半分隠された顔に私がホッとしていること、彼は気付いているだろうか。あんなに整った顔を四六時中ぜんぶ見せられたらいくら心臓が強くてももたない。彼の髪型は知らない所で、私の精神安定剤の役目をひそかに果たしているのだ。

「無理しなくていいよ」
「大丈夫、です」
「本当にあまり顔色が良くない」

 そう言って泣きそうな顔で真っ直ぐに見つめられたら、逃げ出したくなった。
 恋に落ちるのなんて本当に呆気ないのに、一旦始まってしまえばそれがものすごい重大事になる。日に日に重要性は増す一方で、しかもそれを増長させている要素はただの思い込みなのだから性質が悪い。
 いまもそう。吉良副隊長に見つめられて、それだけでどんどん心臓がうるさくなる。頭にじわじわと血がのぼる感覚にとらわれる。ここは一旦退避が得策かもしれない。

「お茶、入れて来ますね」
「僕が行ってくるよ」
「いえ、私が…」

 些細なはじまりを思い出していた。ただの悪戯な風。あの時急に風が吹かなければ、私はいまこんなふうに心臓を乱れさせてはいないんだろうか。
 風が吹いて、吉良副隊長の前髪をさらりと靡かせて、隠れていた顔が見えてしまったから。きっかけは、たったそれだけ。
 たったそれだけなのに、今ではそこから拡がった感情が自分の大部分を占めているような気がする。吉良副隊長にしてみれば心外に違いないけれど、こうしてふたりになりたいのに、いざふたりになれば強張って呼吸も上手くできない。やっぱり頭が痛い。
 緊張で胃が痛くなる例は聞いたことがあるけれど、頭痛がするというのはどういうことだろう。ずくずくと鼓動が頭部に移ったように、こめかみの奥が脈打っている。

「君、疲れてるみたいだから」
「いいえ」

 ひどくなる一方の頭痛を無視して勢いよく立ちあがったら、眩暈がした。





 胸に何かが近づく気配で、そっと目を開ける。薄暗いその場所はどこだかはっきり分からなかったけれど、先ほどまでいた隊舎でないことは確かなようだ。いつの間にかやわらかい布団に寝かされている。

「痛む所はない?」

 包みこむように、頬に手を添えられる。その主が誰なのか、低い声で悟ってどくん、どくんと鼓動が一気に高まった。

「おはよう、具合はどうだい」
「大丈夫 です 」

 おはようというにはまだ暗い時間。霞んだ視界にはぼんやりと吉良副隊長の顔が映る。上から覗きこまれているせいで、きれいなあの顔が全開。頬に触れている掌がするりと滑って額を撫でる感触よりも、目の前の非の打ちどころのない顔に胸がさわいでいる。

「すこしだけ、熱があるんだ」
「わたし………ここは?」
「僕の自室。応急処置はしておいたけど」

 私はたしか仕事をしていて。副隊長とふたりきりになって、胸が苦しくて。頭が割れるように痛くて。お茶を入れようと無理に立ち上がったところで、記憶がぷつりと途切れていた。

「頭痛、ひどかったんだろう?」
「………」
「言ってくれれば良かったのに」

 これでも元四番隊所属なんだから少しは頼ってくれないかな、と付け加えて顔を近づける彼をまともには見れず眼を伏せた。顔が近い、近すぎる。
 倒れた私を、彼が運んでくれたということは分かるけれど、何故 ここ なんだろう。なぜ私は吉良副隊長の寝所を占領しているんだろう。

「すみません」

 自分でも驚くほど弱気な声に、出して初めて後悔した。背中をつ、と冷や汗が走る。
 想い人の部屋で、彼の布団のなかで、辺りは静かな夜。執務室でふたりきりになるのよりも数段階心臓に悪い状況が整っている。

「謝ることはないよ」
「………」
「まだ、痛いかい?」

 言われて身体を起こせば、さっきまでが嘘のように頭の痛みはおさまっていた。その代わりに、心臓が壊れそうに戦慄いている。声を出せばまた弱々しいものになりそうで、無言で首をふったら、頭を撫でられて反射的に背筋がぞくりとふるえた。

「もう少し休んだ方がいい」
「でも、」
「薬。飲んで」

 有無を言わさぬ口調に、それ以上抵抗出来なくなる。差し出された薬包を受けとった瞬間に、指を掬われた。布団の上に落ちるそれが、渇いた音を立てる。

「君には無理をして欲しくないんだ」
「無理は、してません。しません」
「約束してくれるかい?」

 副隊長は小指をなぞり、指の根元から先までゆっくりと確かめるように、指を這わせる。むず痒い感触がじわり、じわり、脊椎を這いあがる。

「僕の言う事は聞きたくない?」
「約束、します」

 視線を合わせずにそう返せば、低く笑う彼の首筋できれいな咽喉仏が隆起する。顔を見なければすこしは平静を保てると思ったのに、そんなもの一つで息を呑む。
 無防備な小指をしっかりと彼の小指で絡め取られたときには、すっかり息が止まりそうになっていた。

 このままでは、ひとりでまともに薬も飲み下せそうにない。


「おいで」
「……」
「僕が飲ませてあげよう」

 吉良副隊長は、こんなに強引な人だっただろうか。耳元で聞こえた声を不審に思う頃には、とっくに後ろから掻き抱かれていた。

「ひとりで、飲めます」
「こんなに震えているのに?」

 彼の手から薬包を奪い取る指はたしかにふるえている。おまけに、乱れた呼吸のせいで咽喉の奥が絞め付けられていた。
 絡んだままの小指をきゅうっと強く握りしめられて痛みに顔を歪めれば、彼は薄く笑って耳元でまた囁く。

「無理はしないって、約束したばかりだろう?」

 甘く掠れた声に、頭は溶けそうで。なのに身体は強張って。どういう状況なのかのぼせた頭が理解できないまま、顎をそっと掴まれる。
 こつん。額が触れて、透き通る両目に捉えられたなら、もう動けない。

「もう約束を破るのかい?」
「……いえ、でも」
「言い訳は聞かないよ」

 こんなに近くで誰かと視線を合わせることなんて滅多にない。しかも、目の前にあるのは大好きな彼の顔。
 目を開いていられなくて瞳を閉じたら、唇にかかる息をやけに鮮明に感じた。吉良副隊長が、触れそうに近い。

 どうやって呼吸をすればいいのか分からなくなって。分からないまま、そっと顎を傾け、その唇にくちびるで触れてみた。

「……っ、君は」
「すみま」

 いったい私は何をしているんだろう。熱のせいで頭がヘンになってしまったんだ、きっとそうに違いない。謝罪しようとしたら、くるりと布団へ押さえつけられ両頬を包まれた。
 見たこともない熱っぽい視線に捉えられて、夢と現の区別がつかなくなる。

「先手を打たれるなんて不覚だよ」

 切なげに眉をひそめた端正な顔に見下ろされて、今度こそ息が止まる。乱暴に口唇を寄せられ、薄く開いた隙間から彼がたやすく進入した。
 むせ返るような、いつもの彼の静謐さとあまりに遠い感覚は、まるで本能をそのまま剥き出しでぶつけられるようで。彼の考えていることはさっぱりわからないのに、こうしているのが当然に思えるのが不思議だ。

「僕がどれほど君を想っていたのか、」
「吉良…副隊長」

 分からせてあげたい。苦しげに続く言葉は、やっぱり夢なんじゃないかと思った。彼が私を想っていた?そんなに苦しげな顔をするくらい?
 恋をしていたのは自分だけではなかったと、そういうことだろうか。疑問を感じている間もくちびるは降り続く。

「まだまだだよ」
「……っ」

 離れては引き寄せる口唇も、あざ笑うように巧みな舌づかいも、いつまでも余韻を残して身体の芯に入り込む。
 じくじくと胸を締めつけられ、次第に離れがたくなる。言葉を発するたびにはなれる唇が恋しくて寂しくて、呼吸を奪うように追いかける。もっと。もっと。もっと。

 刻みつけたい――低くて甘い声が、鼓膜からきっと私を溶かしている。
 繋がっているのは唇なのに、もっとそのずっとずっと奥の方が熱くて苦しくて。焦れはじめている。
 甘い痺れに耐え切れず漏れだす吐息を、気にする余裕はなかった。布団に身をあずけ、押さえつけられたまま、ただ夢中で彼を貪る。貪られる。

「まだ、だ」
「吉良、副たいちょ…」

 自分と彼との境目がわからなくなるほど強く唇を押し当てられ、密着した腰の辺りがもどかしい。もう、いつもの落ち着いて冷静な彼の姿はどこにも見当たらない。
 焦らすようにわざとらしく腰を擦り付ける顔が、ゆるやかに歪む。吉良副隊長に、こんなに意地悪な一面があったなんて。でもその驚きも、情事の期待を勝手に膨らませるばかりなのだ。

「この先はちゃんと君が」

 イイ子に出来たらね。弄るような言葉のあとは、ただひたすらに長くながく息の止まりそうなくちづけ。上顎を舌で舐められ下唇を食まれ、僅かにのけぞると喉元を舐めあげられる。彼の顔を見たくて首を起こせば、また唇を奪われ執拗にキスが繰り返される。
 何百メートルも全力疾走したあとみたいに、呼吸が乱れて。なのに従うことしかできないのは、彼のことがどうしようもなく好きだからだと改めて噛み締める。
 いつの間にか爪先はぴんと反り返り、額も背中も首筋もうっすらと汗ばんでいる。きっと私がいま何を望んでいるかなんて、彼には全部筒抜けのはずなのに。

「…吉良……っ」
「ダメ、僕におねだり出来てから」

 意地悪な台詞に、ねだるような上目遣いで訴えればまた唇を奪われる。嗜虐的に歪んだ表情が、ますます彼をきれいにみせる気がしてため息がもれた。なのに言葉や表情とは裏腹に、私にふれる指は泣きたくなるくらいに優しいから狡すぎる。
 やさしく髪を梳かれながら唇奪われているうちに離れられなくなって、何度も求めていると堪えきれない情欲が沸き上がる。
 たまらなくなって彼の首筋へ縋りつけば、いつの間にか袴の隙間からすべりこんだ彼の手が内腿へそっと触れた。

「もう、降参するかい?」
「……っ」

 試すような醒めた台詞と火照る指。その対比に翻弄されて、泣きじゃくりそうな掠れた吐息が漏れる。そんな私の唇を塞いだまま、様子を見るような余裕の表情が憎らしい。
 じりじりとせりあがってはまた離れていく指が、続く快楽の想像を鮮明に呼び起こす。早く、はやく、もっと。
 まだ曖昧なところを撫でる指先がもどかしくて、なのにいま私に触れているのはあの吉良副隊長の手なのだ。さっきまでは神経質そうに筆を握っていた彼の指。その指がいまは私に触れている、それだけで恍惚へと追いやられそうになる。
 ため息の熱を測るように、もう少し、あとすこしのところでまた離れてゆく。指のうごきに踊らされて身体は敏感に反応し、強張っては弛緩するを繰り返しすぎて息が上がる。ばかみたいに呼吸が荒くなる。

「どうしたんだい?」

 どうしたもこうしたもない。つきつけられた現実に膨らみ過ぎた期待で、咽喉の奥はすっかり嗄れてしまって、すこしの声すらうまく出ない。欲しい、もっと。もっと。欲しい、彼が
 ――欲しい。

「降参は…?」

 出来ない返事のかわりに縋り付いた首筋を必死で引き寄せて、金色の髪を掻き上げる。ぴったりふれて伝わったいつになく激しい彼の心臓の音にほんの少しだけホッとしながら、形の良い耳たぶに噛みついて。

(もう、だめ)

 声にならない吐息でたったひとこと根を上げたなら、内腿を這う指が一気に緩慢さをなくす。

「良かった。僕ももう、限界」

 言葉とともに一際深くふかく唇を貪られて、たまらずぎゅっと目を閉じる。
 熱を持ちすぎた部分を意地悪な指が狙いどおりに掠めた瞬間、身体中がふるえて熱く凝った吐息がこぼれた。



その吐息すらして

先手は君に譲ったんだから、そんなに簡単には離してやれないよ。
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2010.02.04
イヅルにある一言を言わせたかっただけのお話。
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