パルファム

 いつから続いているのかもわからなくなるくらい長いながい沈黙を、降り続く雨が静かに彩っている。なんでこんな時に雨なんて降らすのだろう、神様は意地悪だ。

 ――俺の前から消えてまえ。

 何度も反芻した真子の台詞が頭のなかを回っている。
 馴染みのカフェの指定席。窓を叩く雨粒は透き通っているのに、切ない色に見えた。店の隅っこでなにも喋らずに向かい合っている真子とわたしは、周りのヒトからいったいどんな風に見えているんだろう。
 別れる寸前のカップルみたいに周囲の目も気にせず醜態さらすよりは幾らかマシかな、と考える余裕がある辺りわたしも懲りていないのかもしれない。真子が怒るのも無理はないな、と改めて自覚したら、さっきまでの会話がまたリフレインする。

「俺の言うことそないに聞かれへんのやったらなァ」
「なに」
「ええ加減俺の前から消えてまえ」

 どこかで真子は本気じゃないと思っているから、こうして彼の前に黙って座っていられる。本気じゃないと思っているから、何度も同じことを繰り返してしまう。
 でも。限界というのは、なんにでもあるものだから。今回の件が彼の許容のボーダーラインを越えているかいないか、誰に判断できるだろう。
 もしかしたら、本当にこれで終わりかもしれない。そう思ったら他のことは全部色褪せてみえた。

「いつまで黙っとくつもりやねん」
「わからない」
「ほんで、どないすんの」
「…わからない」

 そもそも悪いのは、わたしが誘いを断れないせいだ。ご飯食べて帰らない、飲みに行こうよ。楽しい場は嫌いじゃないから喜んでついていく。行ってしまえばついつい長くなる。社の違う真子にいつ連絡しようと思いつつ、いつもタイミングを誤ってしまう。
 真子のことは好きだけれど、だからと言って真子だけにべったりの生活をするつもりはないし、それはお互いさま。ある程度の自由は認めあうべきだというのがわたしたちの考えだった。
 けれどつい調子に乗ってしまうのだ。23時までには帰りますと約束して帰れなかったことが何度あるだろう。

「ほんまにええ加減にしてくれや」
「ごめんなさい」
「俺かてこんなこと毎回言いたないねんで、ボケ」
「…はい」
「そうやって殊勝な態度見せてんのもいまだけやんけ」
「………」

 終電で帰ります、そう言って家に辿り着けなかったことが何度あるだろう。しかも一緒にいる相手はたいてい男性。なにも後ろめたいことはないし、その辺りは信用されていると思ってるけど。

「別に俺、ハナからアカン言うてるわけちゃうやろ」
「はい」
「ただ、節度を守れ 言うてるだけや」
「…はい」
「お前も一応女やねんし」
「一応…ね」
「なんか文句でもあんのか」
「…いえ」
「女を誘う以上、相手の男に下心あれへん訳ないやろ」
「そう…なの?」
「当たり前やんけ」

 真子だって会社の女の子たちと飲みに行くけれど、そこには下心があるということだろうか。
 そもそも自分のファッションにとても気をつかっている時点で、モテたい感情を持っていることはわかっていたし、そうやっていつも格好良さをキープしようと努力する姿勢も真子を好きな理由だから、変わってほしくはない。

「…真子も?」
「っアホか!いまは俺のことはどうでもええんじゃ、ボケ」

 温くなったコーヒーをがぶ飲みする真子の舌で、ピアスがきらりと光った。カップを持つ手にはシルバーリング、さらさらの金髪にハンチング。
 いつも自慢のカッコイイ彼氏だから、女の子にちやほやされるのも当然だと思う。だけど決定的なところで裏切らない男だと信用もしている。

「とにかく、節度を守れっちゅうとんねん(お前には自覚が足れへんのや)」
「自覚?」
「わかったんけ」
「わかった。分かりました」
「ほな、次行くときはちゃんと先に連絡すんねんで」

 はい、と頷けば子供にするように髪をくしゃくしゃと撫で回されて。手首から香水の匂いが香ったら、ホッとした。いつでもこの香りを嗅げば落ち着く、真子がここに、わたしの傍にいるんだと。

「それから、ええ頃合いで帰ってこい。命令や」
「…はい」
「絶対やぞ」

 眉間のシワをすこしだけゆるめて真子がため息をこぼす。自分でもなにを毎回同じことで怒られているんだろう、と不思議に思う。

「それにしても自分なァ」
「…ん?」
「俺を怒らせたいんか?」
「違うよ」
「ほな、なんやねん」
「怒られたい……とか?」
「なんやそれ、マゾか!?ちゅうかなんで疑問形なんや」
「自分でもよく…分からないんです」

 本当に分からないのだ、誘いを断りたくない気持ちと目先の楽しさを足したところで、真子と過ごす時間とはくらべものにならないのだけれど。誘われるのは突発的なことが多くて、急に予定が変わったことをなかなか言い出せない。

「怒られたいて…」
「でも嘘じゃないよ」
「そんなんお前、男のヒトに怒られんのは怖いとか言うてたやんけ」
「そうなんだけどね」
「訳分からへんわ」
「真子だけは別格…ってことみたい」

 しばしの沈黙のあと、ふってくるのは予想通りの罵倒。それがとても嬉しいなんて、わたしは変なのだろうか。

「っ!ほんまのアホやな」
「真子のカノジョですから」
「俺がアホや みたいな言い方、せんといてくれるか」
「すみません」

 こつん、額を弾かれてまた真子の香りが漂う。空気中に霧散するその欠片を全部飲み込んでしまいたいと思った。

「まあええわ」
「ホントごめんね」
「謝っててもアテなれへんしなァ」

 それで真子は理解したのか、理解するのを諦めたのか。深いため息をついた。

「でも、真子は"別格"だから」
「当然やんけ!」
「怒られても嬉しい」
「ちゅうかお前"別格"いう言葉つこたら何でも許される思てんちゃうの」
「まさか…ホントです」
「アホ。甘いんじゃ!」

 ほな、帰るで。言いながら突然立ち上がった真子に手を取られ、前のめりに胸に倒れこむ。吸い込んだ息いっぱいに大好きな匂い。

「なにやっとんねん、鈍臭いのう」
「…ごめ」
「しっかり歩けっちゅうねん」

 レジに向かう真子の綺麗に伸びた背中を見送りながら、バッグを手に後を追う。かすかな残り香を追いかけるように。


「それにしても…"消えてまえ"はキツかったよ」
「そんなん俺は謝らへんで」
「わかってます」
「お前が悪いねん」

 強気な台詞といっしょに差し出された手を握り返して、見つめ合うとすこし笑う。雨は上がっていた。



パルファム

俺にとってもお前が別格や、そんなん簡単には言うてあげへんけどな。
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2010.02.05
飼い馴らされた指 のふたり
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