それは君に似て
車のハンドルを握る真子の隣で、ほうっとため息をつく。流れ去るネオンの中、しずかなジャズの音。ダッシュボードのデジタル時計は、日付の変わるすこし前を示していた。
「どっか寄って帰ろうか」
「なんでやねん」
「こんな時間に食事作るの面倒だし」
「ズボラかましたいんか?」
運転席を見れば、真子の口角は薄笑いを浮かべるように持ち上がっている。
怠けたくないと言えば嘘だ。正直かなり疲れている。一週間のフルタイム勤務後、金曜の晩というのはいつも身体に砂が詰まったように重たくなっていた。重たい身体がさらに重たくなるのを避けるため、すこし手を抜きたいと思ってもおかしくはないはずだ。
「たまには外食もいいでしょ?」
「アカン、却下や」
「…………」
形良い唇から吐き出された予想通りの言葉。反論はいつも声にならない。短いため息のなかに苛立ちを混ぜて、真子から見えないように顔をしかめる。
悔しいけれど、たぶんいまの私の表情なんて真子はお見通しのはずだ。私の中にある不満も。なのに、決して首が縦に振られることはなかった。
分かってはいたけれどすんなり諦めきれず、聞こえないくらいの小声で「ケチ」と呟きながら助手席の窓に向かって舌をだす。
「いまケチ言うたやろ」
「なんも言ってません」
「真子様の地獄耳、知らんのか」
「ただの被害妄想じゃないの?」
「ちゃうわボケ!」
今ちょうど、家路の中間地点を過ぎたあたり。互いに仕事を終え、こうして待ち合わせをして同じ場所に帰るのだから、少しくらいの寄り道の何が問題なんだろう。
疑問は浮かんですぐに消える。私が思ったままを口にすれば、真子がどんな反応をするのか、きっちり分かっていた。分かるくらい長い付き合いをしてきた。
「俺、急にそないして予定変わんの嫌いやねん」
「知ってる、けど」
「けど、なんや?」
「ううん……何も」
「ほな家で喰うたらええやんけ」
「…………」
口にすれば面倒なやり取りが増えるだけ。疲れた頭を駆使しても、きっとことごとく言い負かされて、結果は変わらない。
そう。真子はそんな奴だ。どこかへ行くのなら、前日、もしくは当日の朝にはそのつもりになっていないと、急に動く気にならない。彼曰く、出かけるのにはそれなりのモードというのがあるらしい。意地悪でもなんでもなく。
おおざっぱに見えるのに、妙な所は神経質。なんて面倒臭い男だろう。だから彼に限っては、ふと思いついてどこかへ行くなんてあり得ないのだ。
でも今日はわざわざ出かける訳じゃなくて、ただの寄り道なのに。たまには私の意見を尊重して欲しいと思うけれど、思うだけ。思うだけで私はいつも口をつぐむ。
「…………」
「何を黙っとんねん」
泥のように疲れているのに余計な議論を増やすのはうんざりだ。視線を流した先で、デジタル時計の数字がひとつ、時を刻んだ。
「…………」
「納得してへんのか」
「…………」
「お前かて疲れてんねやろ?」
「……だからこそ、でしょう」
「なんや、反論でもあんのか」
あるんなら聞いたるから言うてみィ、と続く高圧的な台詞にやっぱり口をつぐむ。
疲れているからこそ、帰って食事の準備や後片付けをしたくない。それは、贅沢な望みだろうか。
「……何も、ありません」
ずきずきと痛むこめかみを揉み解しながら目を閉じる。普通のカップルなら、と考えることは何の意味もない。ここにいるのは私と真子なんだから。
「俺に言わせたら逆やな」
「逆?」
「ああ、逆や」
「…………」
「ほんまいつまでも分からんやっちゃなあ、アホ」
ちょうど赤信号で停まった車内。隣を見れば、台詞とは裏腹なやさしい眼がこちらに注がれていた。
「疲れてるからこそ、飯食うたらすぐゆっくりしたいやん」
「……でも、」
「腹膨れたら動くんしんどなるやろ?」
「だから、後片付けしなくていいようにって」
「俺がやったるて」
「それでも、準備は」
「いらんいらん」
それじゃあ二人ともお腹をすかせたままじゃないか。でも、いっそのことからっぽのまま寝るのもいいかもしれない。少なくとも身体はいま、食べることよりも眠ることを欲している。
そうだ、食べなきゃいいんだ――心の中で呟きながら、直交する信号が黄色に変わるのをぼんやりと眺めた。あと数分で家。
するり首の後ろを撫でて真子の腕が肩に回る。避ける間もなく、ぐい、と引き寄せられる。疲れた体は力に逆らえず真子のほうへ倒れ込む。珍しい。べたべたするのは嫌いな真子なのに。不思議に思っていたら、耳元で響く低い声。
「全部やったる」
一言で車内の空気が変わった。みじかい台詞が、愛の告白よりももっと甘く耳たぶを撫でて、心に染みる。気怠げに響いていたジャズボーカルは、胸をざわつかせる濃厚なラブソングにしか聞こえなくなる。
――全部、やったる。
心臓がどきどきした。まるではじめて恋に落ちた時みたいにどきどきしている。声も出せない。
なに、今日の真子?台詞も仕種も声音も、視線も。予想外なことだらけで。さっきまでいつもの真子だったのに。誰、これ。
「お前は寝てたらええから」
「………っ」
「たまには上げ膳据え膳したる、言うてんねん」
くしゃ、撫でられた髪から指をほどいて、くっついていた胸を押し返す。これ以上何かされたら、心臓がもたない。
横暴かと思えば、こうして急にやさしい。疲れた心と体には刺激が強くて。飴と鞭の使い方が絶妙過ぎる。だから、つい言うことを聞かされてしまう。操られている。いつも、いつも。
「真子、」
「なんや、惚れ直したんけ」
「………信号、青」
照れかくしに出てきた言葉は、それだけだった。
それは君に似て悔しいけれど何度もなんども、恋におちる。惚れ、直す。