フラクタルな日常
目の前の信号が青に変わり、スクランブル交差点を歩き出す。溢れる人波に、狭くて灰色の空。夜のやさしい偽りをなくした街で、ヒールの音をカツカツと響かせる。
ひとりぼっちの朝。退屈や飢餓感はもう何処かに消えてしまった。彼のおかげで。
今頃彼の街は、どんな景色を見せているのだろう――
◆
ギンとの逢瀬は毎週続くかと思えば、一ヶ月以上あくこともある。あのバーで待ち合わせた後に過ごす場所は、彼の宿からいつしか私の部屋にかわっていた。
「ほんなら、また」
「ん。身体に気をつけて」
「なんや、えらいアッサリやねんね」
「ベタベタするのは柄じゃないから」
終電の発車を告げる構内放送が聞こえる。いつまでも電車に乗ろうとしない男に愛おしさばかり募るのが悔しくて、急かすようにぎゅっと広い背中を押した。
「ボクはもうちょっと甘うてもええ思うねんけど、別れ際くらい」
「もうお腹いっぱいデス」
「そない激しいしたつもりないんに」
そう言ってギンは、口角を意地悪に歪める。長身を折るようにして耳元に寄せられた顔を、睨み付けてみせるのはただのポーズ。内心、何度見ても格好いいと思っているなんて絶対に気付かれてはいけなかった。
「……バカ」
「照れなや」
「照れてません」
甘ったるい台詞に甘い声。きちんとスーツを着こなした均整のとれたスタイル。ため息が出そうな絶妙のバランスで彼はそこに立っている。
色素の薄い肌と髪はそれだけでも目を引くのに、何気なく顎を掬われて額に唇が落ちる。やわらかく、一度。
新幹線のホームでいちゃつくありふれたカップルみたいに、大袈裟に別れを惜しむのは柄じゃない。第一、私たちは付き合っている訳でも何かを約束したわけでもないのだ。
「こういう場所では嫌だ、って言ってるのに」
「分かっててんけど…堪忍」
けれど。結局会うたびにこうして見送りに来てしまう。唇を寄越されたら、喜んで受け止めてしまう。私的には充分すぎるほど甘い状況。
彼といると全てがふわふわして、浮遊感が付き纏う。自分はこうしたい、という感覚がぼんやりとぼやける。
――堪忍。たったひとことで私を屈服させる男なんて、今まで一人もいなかった。
「着いたらメールするさかい」
「寝てたらごめんね」
携帯No.とアドレスを交換しても、私たちのやり取りは必要最小限。それで充分だと本気で思っている。寝ていてメールを見れなければそれまでのこと。ただでさえ彼と会えば寝不足になるのだから。
「ほんま、素っ気ないなァ」
「そんな女だって諦めて」
それでも最後には彼と繋がれる。その手段を持っている。知っているのといないのとでは、大違い。それだけで、一夜の過ちは過ちではなくなる。そう思えることが大切だった。
ふ、と吹き抜けた夜風が短い髪を撫で付けて闇に溶ける。
「そないなトコもええねんけど」
「物好きだね」
「お互いさまやろ」
顔を見合わせて少し微笑む。細く開いたギンの目に自分が映っている。そんな些細なことで胸がぎゅっと詰まって、離れがたさが湧きあがる。
「……ギン」
「今そんな声で呼ばんとって」
「………っ」
「帰りたなくなるやないの」
なぜ名前を呼んでしまったのかは自分でも分からない。でも呼んだことで胸のざわつきがひどくなったのは分かった。私を見下ろすギンの目が、急に優しさを増したのも。
ああ、私はこの目が好きだ。
そんな表情を見せられたら、なおさら離れがたくなる。もっとギンを見ていたくなる。口を開けば「帰らないで」とか馬鹿な言葉があふれそうで、唇を噛み締めたまま、困ったようなギンの顔をただ見つめ続けた。
プシュー、パタン。迫り上がる愛おしさを断ち切るように、目の前でドアが閉まって。半ばホッとする。
もし少しでもタイミングがずれていたら、衝動的に車両へ飛び乗っていたかもしれない。
「おやすみ」
閉じたガラス越しに呟いて、ギンの姿を瞼の裏に焼き付けると、車両が見えなくなる前に踵を返した。
◆
ギンの目の前で、機械音を響かせて扉がしまる。無機質に、静かに。
別れ際は気持ちを引き摺らないことに決めていた。いつまでもそれしか執着するものがないように、離れていく女の顔を見つめ続けるのは性に合わない。
「……っ」
何かを言いたげなカタチで止まった彼女の唇を網膜に焼き付ける。
扉が閉まれば、新しいシーンに切り替わる。そんな具合に、感情もすっぱりとシャットダウン出来る男でいたかったから。
ここを離れればまた日常が始まる。彼女のいない日常。それは当たり前のことなのに、彼女と触れ合い混ざり合って別れた直後は、ぽっかり心に空洞ができた気がする。
「ほな、おやすみ」
ガラスの向こうには聞こえない声で呟いて、車両が動き出せばすぐに踵を返す。出来るだけ颯爽と。
でも。本当は、彼女の後姿を見たくないだけだった。もう一度あの姿を見たら、追いかけたいと思ってしまう自分に気づくのが嫌だった。
終電の車内には、くたびれた空気が漂っている。明日からの仕事を身にまとわりつかせたような、濁った疲労感。ボクもこのヒトらァとおんなしように見えんのやろか。
「それはちょっと嫌やなあ……」
心のなかで呟いて、指定席のシートに身体を預けると、ギンはそっと目を閉じる。アルコールと煙草の匂いが、鼻先をなでた。
彼女は素っ気なくて、いつでもどこかに飛んでいってしまいそうで。かと思えば急に縋り付くような濡れた瞳で見上げたりする。全力で縫い止めてほしいと、潤んだ声でボクを呼ぶ。
いまにも消えそうな気がしたかと思えば、次の瞬間には圧倒的な存在感を見せつける。まるで、絶滅危惧種の鳥みたいな不思議な子ォや。
ボクはちゃんと彼女の止まり木になれてるんやろか。彼女はそんなモンをほんまに望んでるんやろか。ボクに。
「アカン。こんなんボクらしないわ」
誰かを縛るとか縛られるとか、自分の領域に踏み込まれるんは苦手やったはずなんに。
流れ去る夜の街、少しずつ寂しくなってゆく明かりを眺め、既に次の逢瀬を待ち侘びている自分に少し笑った。
◆
ひとりでも飲みに行くようになったのは、ギンの影響。水槽の中の熱帯魚を見ながら、アマレットを流し込む。ギンも遠い空の下で今頃ひとり酒だろうかと思ったら、自然に口元が緩んだ。
渇いて渇いて仕方がない感覚は、もうすっかり消えている。同じところで泳ぎ回っているのも、案外幸せなのかもしれないと思えた。
「ノックアウト。お願いします」
「もう、お帰りですか?」
「ほどほどにしておかないと」
「怒られます、ね」
店主の穏やかな声。いつの間にか彼と公認のカップルになっているのが嬉しかった。
もちろんギンには会いたいし、声も聞きたい。いくらでも踏み込まれたいと思う。でも携帯電話に頼る気にはなれなかった。
電波越しのものより、生身の彼がずっと大事。一緒にいたときの表情や声を忘れないように、ひとりで彼を反芻することを大切にしたかったから。
だから携帯は使わない。彼の連絡を待って待って眠れないなんて、そんなバカな行動は絶対しない。
「寝よう…」
枕元で充電ランプの点灯した携帯を横目に見て、ふっとため息をつく。
嫌だいやだと言いながら、結局は待っているみたいじゃないか。苦笑して目を閉じた直後、珍しく着信音が響いた。
「もう寝てたん?」
「ちょうど目を閉じたトコ」
「ごめんな、タイミング悪うて」
「……どうかした?」
ギンからの電話は本当に稀だから、何かあったのに違いない。少し声が上擦っている。
「ちょっとええことあってん」
「へえー…」
「直接話したいさかい、明日行くわ」
突然の出張は初めてではなかったけれど、電話を切ったあとも私はなかなか眠れなかった。
◆
「キミに報告することあんねん」
カチン。グラスを合わせた直後、ギンは唐突に話を切り出した。
「喜んで貰えるかどうかわからへんねんけど…あんな、」
「……」
「実は、な……」
歯切れの悪い言葉、急にあらたまった表情。見たこともない神妙な顔をされるから、ドキドキする。彼のこんな姿を見たことがなかった。
「なに?」
「内示が降りてん」
「辞令ってこと?」
「せや。来週から本社勤務やて」
本社――勤務。
一般的には出世ルートに乗ったということ。だけど私たち二人の間では、もっと単純で。一緒にいる時間が増えるってこと。
あまりに出来過ぎた未来に、どこかでばちがあたりそうな気がした。いいことが続くと、あとで手ひどいしっぺ返しが来そうな気がする。
そこまで思ったところで、自分が余りにも喜んでいることに気がついた。そして怖くなった。
「あれ?あんまり喜んでくれへんのやねぇ」
「そんなこと、ない」
「せやろか」
嬉しかった。嬉しいからこそ怖かった。手に入れるのは怖い。いつかは失うかもしれないって恐怖を、同時に受け入れることだから。
「そんなことない、けど」
距離が縮むことがどう作用するのか。離れていたから知らずにいられたことを、知ることになるのは怖かった。知られるのはもっと怖かった。情報を入れれば入れるほど、興味は失われていくものだから。
「けど、なに?」
「………こわい」
「そんなん、」
彼に私の全部見せれば、離れていくんだろうか。彼の全部を知れば、私は彼から興味を失うんだろうか。
「ボクかて一緒や」
「………」
「怖いで」
秘密には力がある。それが秘密であるうちは。
「けど、明日の感情を約束出来る人間なんてどこにもいいひんし」
こつんとカウンターの下で膝がぶつかる。ぞく、と体の芯がゆれた。触れたせいだけでなく、言葉のせいだけでもなく。
「大事なんは今、やろ」
「まあ、ね」
ほんなら来週、荷物解くん手伝ってな。頷く私の目の前で、水槽の熱帯魚の尾鰭がやけにきらきらと光っていた。
◆
教えられた住所はうちからすぐの場所で、そこを選んだ理由があのバーのせいだとしても嬉しかった。
エントランスを抜け、エレベーターに乗り込めば、じりじりと動悸が高まってインターフォンを鳴らす指がふるえる。
「いらっしゃい。迷わへんかった?」
招き入れてくれたギンは、初めて見るラフな格好。シンプルで質の良いVネックシャツにジーンズの出で立ちは、見慣れないからこそ余計に胸を騒がせた。
「こっちがリビングで隣が寝室」
「広っ!」
「せやろか?」
「一人でこんなトコ住むなんて贅沢なんだ?というかお金持ち?」
広さの割にはダンボールの数がすくないのが彼らしい。ここは本当に、彼の家なのだ。妙に気恥ずかしくて饒舌になった私は、喋りながら隣の部屋のドアに手をかける。
「なに言うてんの」
「……え?」
すぐ傍で聞こえた声に振り返ろうとしたら、突然背中から包まれて、身体の重心が不安定に揺れる。
「一人とちゃうよ」
首筋を撫でる低い声に目を細め、ギンの言葉を待つ。言われることは分かっていた。自分が何と答えるかも。それでも聞きたくて。
でも、聞いたらきっと泣いてしまうんだろう。ばかみたいに胸が震えていた。
フラクタルな日常キミも一緒にここで暮らすんやで?- - - - - - - - -
2010.04.24
大人仕掛けの神様・トロンプルイユ残存率 のふたり
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