トロンプルイユ残存率

 渇きが癒えるのは一瞬、そのあとには強烈な飢餓感が襲うのだ――

 一夜だけ、今その時だけ。満たされた後にはきっと知る前よりも酷い渇きに苛まれるに決まっている。"一夜の過ち"。ふたりの関係に、それ以外の呼び名はない。

「ちょっとだけなんて、……いや」
「安心し。もうイヤや言うてもやめてあげへんよ」

 でも繋がっている瞬間の彼は、そんなことをすこしも考えさせないくらいに優しかったから。



 連れて行かれたのは彼の泊っていたホテル。耳慣れない京訛りは、そういうことだったのか、と思った。
 つまり、彼とはそうそう簡単には会えない、ということ。

「あの店にはな、出張でここに来るたび寄ることにしてんねん」
「へえー…」
「一杯だけで店飛び出したんは初めてやったけどね」
「せっかくのお酒の楽しみを邪魔して、すみません」
「ええよ。こないしてキミを抱いてるほうがずっと楽しいし」

 情事のあと、背中からゆるやかに抱き締められたまま注がれる優しい声。
 とても長い間、ぬくもりを感じたまま、そうしてどうでもいい会話だけを選んで続けた。

「暇潰しになったのなら、なにより」
「そない自虐的なこと言いな」
「……自虐的、かな?」
「せや。キミを虐める役はボクに任せといたらええねん」
「なにそれ」

 髪の毛の隙間に鼻先が潜り込む。やわらかく彼が微笑んでいる気配が心地よくて、私も少し笑う。
 聞きたいことはたくさんあったけれど、聞かなくてもいい気がした。
 彼が既婚者だろうが、歳がいくつだろうが、これがただの遊びだろうが、気まぐれだろうが、どうでもいいと本当に思っていた。
 否――怖かっただけなのかもしれない。彼にとっての自分の位置づけを知ることが。

「ボク、女の子を虐めンの大好きなんよ」
「奇遇ですね。私も」
「ほんま?」
「ええ…」
「せやから、自分のこと虐めるんや」
「違いますッ!男の人を虐めるのが大好きなんです」

 くつくつと笑う彼の息が、首筋をなでる。きっと今の彼は、口角をきゅっと釣り上げたあの顔をしているのだろう。たった一日で大好きになってしまった、あの表情を。

「知ってるて。ボクもだいぶ虐められたモン」
「まだまだ足りませんけど」
「そないなこと言うててええの?」

 肩を甘噛みされる感覚が、背筋をゾクゾクさせる。低く掠れた声が一度だけ私の名を呼んだ。

「ボク、やられたことへの御返しはきっちりする派なんやで」
「……知ってます」
「倍返しじゃあ足りひんかもなァ」
「もう、降参…」
「ノックアウト?」
「ええ。とっくに」
「そんなんボクもや」

 一夜の過ち。コレがそうだと口に出してはいけないことを、知っていた。
 口にしてしまえば、終わる気がした。ただの過ちになって。

「なんや、ボクらほんまに似たモン同士やねんね」
「そう…なんだ」

 彼とすごしたたった数時間を、特別なものだと思っていたかった。
 特別、だった――



 気の狂いそうな飢餓感は、前とすこしも変わらない。むしろ強くなっているのに、欲しいと思う対象はたったひとつだけ。
 "何か"が私を満たしてくれないだろうか、とずっと思っていた。与えられたものにすぐに飽きて、また新しいものを求める退屈な日々のなかで。
 なのに、やっと"何か"が何であるか分かったら、余計に渇いているなんておかしな話だ。

 偶然立ち寄ったバーで、偶然出会った男と、人生の退屈を埋めるためにちょっと暇潰しをしただけ。それだけのつもりだったのに、あの日から私はたった一瞬も退屈を感じていない。それが不思議だ、とまずは思った。
 からっぽの何かを満たしたいと思っていたのに、今では彼を知る前よりもっとからっぽ。なのにもう、なにか新しいものが欲しいなんて全く思わない。
 退屈だ などと思う暇がない位 彼で埋まっている。埋め尽くすほど沢山のものなんて与えられていないのに。それでも彼を持て余す。

「ほんなら、またそのうち――」

 別れ際の彼の声を思い出すたびに泣きたくなる。脳内で数え切れないほどに繰り返しているこの声が、本当に彼の声なのかどうか、もう分からなかった。
 いつでも思い出せそうで、なのに思い出すのは掴みどころのないあやふやな記憶だけなのだ。
 声、聞きたいなあ。ちょっとだけでいいから。あの声が、聞きたい。吐息混じりの甘い掠れ声が、聞きたくて聞きたくて堪らない。
 この文明社会で携帯電話という代物だってあるのに、私たちは互いにそのことには全く触れなかった。関係が安っぽくなるのが嫌だったから?それもある。でも、それよりもあの時、少なくとも私はあの瞬間の彼を味わうだけで精一杯だった。
 おかげで声を聞く手段がない。いつ会えるのか会えないのかもわからない。彼を思い出そうとすれば、自分の脳内の記憶に頼るしかないのだ。本当の彼はどんな声で喋っていたんだろう、曖昧な記憶はさらさらとすり抜けていくだけ。
 彼の名前は覚えている。でも、けっして声には出そうとしなかった。一度呼んでしまえば止め処なく感情が溢れるに決まっていたから。喉の奥に詰まったままの名前が、呼吸の邪魔をして四六時中息苦しい。心臓がとまりそうだ。
 いつしか寝るのが怖くなった。目を閉じれば瞼の内側に浮かぶのはいつも彼の残像だった。ただの虚像なのにずくずくと胸を疼かせて、朝には抜け殻のような私がいる。なのに夢のなかの彼は、すこしも本物に似ていない気がするのだ。

 この街の人間ではないことと、名前以外 私は彼のことを何も知らない。
 二度と会えないかもしれない寂しさ、でもそれで良かったんだという微かな安堵。その気持ちの間で、バカみたいにゆれ続ける。
 そんな私が行く場所は、ひとつしかなかった――

「いる訳ないのにね」

 水槽の熱帯魚に向かって声にならない会話をするのも何度目だろう。

「またそのうちっていつなんだろ…」

 会うはずはないと知りつつ店に足を運ぶ。最後には必ず同じカクテルを飲んで、らしくないと、自分のバカさ加減を嗤うのだ。
 ここに来なければ彼に会えない、でも来れば嫌でも彼を思いだしてしまう。切なさを解消する唯一の方法が、切なさを生むだなんて、皮肉すぎる二律背反じゃないか。
 でも、もう今日で終わりにする。

 そう思っていたのに。そう決めたのに。

 ――カラン。
 小さな鈴の音を鳴らして入ったバーに、あの背中を見つけてしまった。

「また会うたね」
「なん…で……」
「せやから、よう来るて言うたやろ?」

 最初は夢じゃないか、と思った。
 何度もなんども思い浮かべて脳内で再生した声よりも、ずっとまろやかで艶のある声に胸がぎゅうっと締め付けられた。

「どないしたん」

 声の出しかたを忘れてしまったように、立ち尽くすことしかできず、現実感を持てないまま彼の薄い唇を見つめる。

「そないびっくりした顔して」
「あ………」

 彼に会えない間、たくさんの事を考えた。次に会えたらあれも言おう、これも言ってやろうと言葉を溢れるほど用意していたはずなのに。

「隣、あけててん。座りィ」

 腕を引かれ、耳元で囁かれた瞬間に全て飛んで行った。想像よりもずっと腰に響く声が四肢の自由を奪い、頭の中は一瞬でからっぽになった。
 すべてが真っ白で、彼の言葉の意味ももう理解できない。

「今回はずいぶん間あいてしもたんやけど、堪忍な」

 意味はちっとも頭に入ってこないのに、"堪忍な"の響きが恐ろしいほどに優しくて、どうすればいいのかわからなくなった。

「怒ってしもたん?」


「……市丸、ギン」

 ぽろり、名前を漏らした瞬間に涙腺がゆるんだ。この男を自分がどんなに待ち焦がれていたのか、ずっと自覚していたつもりだったけれど、私はまだ自分のことを全然分かっていなかったのだと思った。何で"今日で終わりにしよう"なんて思えたんだろう。
 市丸ギン。市丸、ギン。いちまるギン……喉の奥にずっと痞ていたそれが口からこぼれたら、胸にぽっかりと空洞ができたみたいだった。呼吸の仕方も忘れた。

「ああ。ボクや」

 お待たせ。何度もなんども脳裡で反芻した声がすぐそばで聞こえて、私がずっとなにを考えていたのか、なにを欲しがっているのか、どうしたいのか、全部この男にはバレているのだと気が付いた。
 見抜かれているのが嬉しいと。



 ……市丸ギン。彼女に名前を呼ばれた瞬間に確信した。
 何とも言えない響き、名前だけですべてを悟らせてしまうような響きだった。会いたかった、待っていた、なんでここにいるの?、苦しかった、夢だと思った、怖かった、もう忘れるつもりだった、いくつもの感情が混ざりあった声。泣き疲れて掠れてしまったような頼りない声。
 甘さとは違う、何か切なさのようなもので潤んだ声。彼女のなかにあるすべてが、自分の名前に込められて。欲情を引っ張り出される。
 次の言葉はなかった。
 いまにも泣き出しそうに歪む顔。ボクが欲しいと縋る目。それを見せられたらボクのほうが危うい。

「我慢、できる?」
「……わからない」
「ほな、一杯分だけ我慢し」

 本当は一杯分しか我慢できないのはボク。いますぐ連れ去りたいのはボク。こないに誰かを欲しいと思うんは初めてで、饒舌になることで自分をごまかした。

「ひとりでここによう来てたん?」
「それしか…ない、から」
「次から必ず連絡するさかい、もうひとりでここに来たらアカンよ?」
「………」
「誰かの目ェに留まってしもたらどないしょ て、ボク心配やん」

 彼女の濡れた視線がボクの唇に注がれる。こくりと頷く頭をそっと撫でれば、擽ったそうに眇めた瞳がボクを見上げた。

「ほな、帰るんも一緒な」
「…ん」
「そないな顔せんといて」

 頼むから、そないな目でボクを見つめんといて、今はまだ。内側からとろりと溶け出したみたいな目で。

「ボクいま、かなりぎりぎりで辛抱してんねから」

 いったい自分はどないな顔をしてるんか て、首傾げるキミの姿は愛らしいけど、そんな風に頬を染めたら逆効果や。
 早く、早く、さっさとここから攫いたくて、もどかしさにむず痒くなる。浚って、組み敷いて、重なって、衝動を解き放って、混ざり合いたくて、焦れったさに身悶えしそう。

「…キミも、やろ?」

 肯定の意を乗せて漏れた吐息は甘く湿っていたから。
 カウンターの下に隠れたまま、キミの太腿にそっと熱っぽい指を這わせた。


 ――ご注文は?




トロンプルイユ存率


ノックアウトカクテル、ふたつ。
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2009.01.14
大人仕掛けの神様 のふたり
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トロンプルイユ【trompe l'oeil/仏】
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