大人仕掛けの神様
どういう訳か――いつもいつも、咽喉の渇きに似た感覚に囚われていた。
どこかになにか面白いことは転がっていないだろうか。誰か、何か、新しいものが、からっぽの私を満たしてくれないだろうか。そんな飢餓感でいっぱいだった。いつも、いつも――…
◆
ふらりと立ち寄ったバーには、水槽がひとつ。人工的な光の中を泳ぐ小さな魚を見つめながらグラスを傾ける。
「アンタたちは退屈じゃない?」
そんな狭い箱のなかでぐるぐる同じところばかり回って。私ならきっと5分で飽きるな。そう思いながらも、目が離せない。単純な動きを繰り返す物体を目で追ってしまうのは癖みたいなものだ。
時計の秒針を見つめ続けるとか、振り子の動きを追いかけるとか。そんなことをしていると、ますます退屈が際立つだけなのだけれど。
神様もこうやってどこかから、単純な人間の退屈な毎日を観察しているんだろうか。
「隣、空いてる?」
退屈だった。だから突然声を掛けられたのは好都合だ、と思った。おまけに私は初対面の人間に嫌な思いをさせたくない性分なので、笑顔を作って振り返る。
「……ええ」
「座ってもええかな?」
さらさらの銀髪に狐目。「胡散臭い人物」を絵に描いたような男が立っている。聞こえた喋り方には、鼓膜に残る独特の訛り。これで少しは退屈しのぎができるかもしれないと、頷いた。
――いらっしゃいませ。
控え目なバーテンの声に いつものん と返して腰をおろした彼から、ふわ、品のある香りが漂う。
「キミ。ひとりなん?」
馴れ馴れしさが厭味に聞こえないのは、たぶん男の声と喋り方のせいだろう。退屈しのぎの相手には興味を持たない主義だけれど、この男の声ならもう少し聞いていてもイイ。
「ええ、ひとりです」
「あんまり見ぃひん顔やね」
不自然なほど近付いて私を覗き込むその顔は端正で、涼しげ。キレイな鼻の形だ、と思った。
ほとんど閉じたままの瞳。そんな目で彼には本当に何かが見えているんだろうか?
もしかして、その種の疑問を持たせることで異性の気を惹くため、ワザとこんな表情をしているのかもしれない。危うくひっかかるところだった。
「この店にはよう来るん?」
シェイカーを操るバーテンの手元に見惚れながら、左右に首を振る。
「やっぱり…初めてなんやね。よかった」
「え…なんで、良かった?」
「キミみたいな可愛らしい子ォ見かけてたら、ボクまっさきに声かけてるはずやから」
今夜みたいに、な。耳元に注がれる声が甘ったるい。普通の女の子は、こういうのにきっと弱くて、女誑しらしいこの男の経験に基づく戦略のひとつなのだろうけれど、生憎私のセンサーには引っ掛からなかった。
流れ的にここは一応社交辞令で、彼にも問い返すべきところ。こういうことをいちいち考えなければならないのが面倒臭い。この世には面白いことなんてたいしてないくせに、面倒なことばかり溢れている。
「……アナタは?」
「ボクはまあ、よう来る方かな」
――お待たせしました。
目の前にはグラスがふたつ。するり、男はテーブルの上、カクテルグラスをすべらせる。
「はい、どうぞ」
細くて繊細そうな長い指。男性にしては随分色が白い。
「ひとつはキミの分やってん。おごらせて」
「……あの」
「ええから、遠慮せんとき」
遠慮をしている訳ではない。こういうタイプの男は、与えた分の対価を求めることが多いから。面倒なことに巻き込まれたくないと思っただけ。
退屈はしたくないけれど、面倒事はごめんだ。
「ボク、市丸ギン。よろしゅうな」
無理に手渡されたカクテルを受け取り、カチンとグラスを合わせる。私も名乗らされるのかと身構えていたら、次の言葉は予想とは違うものでホッとした。
「このカクテルの名前 知ってる?」
ショートグラスを満たす液体からはジンの香り。多分、ノックアウトカクテル。かなりキツイお酒だ。
女慣れしたクサイ男なら"キミにノックアウトされたい"とでも言うんだろうか。
「名前通り、殴って差し上げましょうか?」
「いややなァ、キミに殴って欲しいワケちゃうから。勘違いせんとって」
「てっきりノックアウトされたいのかと思いました」
「そういう力技やのうて色恋方面やったら大歓迎なんやけど」
「遠慮しておきます」
「でも、名前知っててんねェ」
「一応は」
「キミにノックアウトされんのも悪うないけど…むしろボクがキミをノックアウトしよ思てん」
「は?」
男は口角を釣り上げる。キミにノックアウトされたい、じゃなくて、キミをノックアウトしてやる宣言なんだ?強気というか何というか、変な男。
「なんや、ほんの冗談やし。笑い飛ばすか、さらっとかわすとこやで」
「……………」
「せやなかったら、逆に引いてもた反応とかしてェな」
軽く肩を竦める。変だけど、たいした男じゃない、そこらの勘違い二枚目風オトコと一緒だ。少しはかけひきを楽しめるかと思ったのに、期待出来たのは容貌の美しさと声だけだったみたい。
まあ、所詮暇つぶしなのだから期待するほうが悪いのだ。
「アナタの思い通りの反応をしなくちゃいけませんか、私は」
「…………」
突然見つめられる。返事はない。さっきまで閉じていた瞳がほんのすこしだけ開いている。
「他人の意図に乗せられるのは真っ平なんです」
「…………」
私の目を見ているのかと思ったけれど、視線がすこしずれている。じりじりと近付いてくる顔は、別に怒っている訳でもなさそうだ。
「あの、」
「…………」
言い過ぎた、だろうか?こういうオトコはそんなこと気にしないはずなのに、と思っているうちに額が触れそうなくらい顔が近づいている。
「離れ…て、ください」
「…………」
相変わらず返事はない。不本意だけど、謝ったほうがよさそうだ。だって私は、初対面の人間に嫌な思いをさせたくない性分だから。
「ギン……さん」
「え?」
「すみません。言いすぎました」
「なに、言いすぎて?キミ、何か言うてた?」
「はい。アナタの思い通りの反応はしたくない、と」
「ごめん…聞いてへんかった」
聞いていなかった――なぜ?彼は私を口説こうと思って近寄って来たのではないんだろうか?
「なぜ」
「理由、知りたいん?」
あ―…、まずい。これがきっと彼の手なんだ。こうやってゆるりゆるりと気を惹いているのに違いない。だって予想外の言動のせいで、もう私は彼のことが気になり始めている。
気になるそぶりを見せたら、負けのような気がした。私は極度の負けず嫌いなのだ。
「いいえ」
「堪忍。キミのこと見ててん」
「………は?」
「キミのこと、見ててん」
「いえ、聞こえてますけど」
なんだこの男。歯が浮きそう、歯が浮いて痒くなりそうな台詞だと思うのに、その声で言われたら調子が狂う。
「なんかついてます?」
「いや。キレイな肌やなァ思て」
「目、見えてないんじゃないですか」
「いやいや、産毛までバッチリ見えてるよ」
「………」
「ほんまに。見惚れてたら、何も聞こえへんかってん。堪忍な」
バカみたい、バカみたいな軽口なのに、なんだろうこの高揚感は。まだたいしてアルコールもとっていないのに、頭がぼんやりする。
「べつに……普通、ですよ」
照れ隠しのため一気にカクテルを呷れば、今度は本格的に頭がくらくらし始める。
きっとこの男はいつも誰にでもこんなこと言ってるんだ。ただの社交辞令、ただの口説き文句、乗せられるなんて馬鹿げている。
「触っても、ええ?」
「……却下。します」
なのに、何でこんなに胸がドキドキするんだろう。体の奥のほうが熱いんだろう。
酔った、だけ?
身体の向きをすこし変えた彼と膝頭がぶつかる。たぶんワザとだ。試されている。な、なに?私のガードがゆるんだことに気付かれてしまったんだろうか。
「ちょこっとだけ、なァ?」
グラスの足に添えられた白い指。繊細で、神経質そうな長い指。いつの間にか、ちょっとだけなんて嫌だと思っている私がいた。
「…いや」
「ほんまにアカン?」
そんな声は、狡い。何気ないその言葉が、その声が、心臓の内側の薄い膜にぴったり張り付いて、呼吸を乱れさせる。
きっと、私はもう…
「ここでは、いや」
…彼の目論み通りノックアウトされてしまった。うまく頭が回らない。
ここで触られるのはいや、まるで誘い文句だ。何言ってるんだろう私。こんなことを言わされてしまったのも彼のせい。陳腐な台詞を吐きながら、喉の渇きに似た感覚なんてすっかり忘れている。
彼のせい…――私に足りなかったのは、きっとアナタ。
「ちょっとだけなんて、……いや」
「………っ」
「足り…ない」
ふいっ、と彼が顔を反らす。故意に視線を外されたんだろうか。触りたいってのもただの冗談で、簡単に乗せられた女を嗤っているのかもしれない。思い通りになりたくないと主張しながら、結局は彼の思い通りになっている。
彼の、せいで。
「ちょ……キミ」
口元を押さえる手がかすかにふるえている。表情は見えない代わりに、膝頭がぎゅうっと押し付けられた。
「なんやの その殺し文句」
「え?」
「キミなんて言うた?」
アナタが言わせたくせに。
「…ここでは、いや」
「参った…まいりました。降参」
5分以内に連れ出したる。ぐい、とカクテルを飲み干す彼の首筋で、形良い咽喉仏がひくりと動いた。
大人仕掛けの神様ボク以外の男には、簡単にそんなこと言うたらアカンよ。